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落城伝説と津波12決着つけた明応7年の巨大津波

 北条早雲は、明応4年(1495)の津波で壊滅状態の小田原城に攻め込んでこれを落とし、続いて明応6年末までに狩野氏を倒して伊豆北半を手中にした。残る伊豆南半は足利茶々丸の遺臣が健在で手ごわい。しかし、伊豆は金銀鉱山開発の可能性も高く、海運の要地でもある。 早雲は興国寺城から沖に浮かぶ伊豆の景色を眺めながら虎視眈々と南伊豆を狙っていた。

深根城足利茶々丸夫妻の供養塔

下田市堀内の深根城(正面の山の中腹)と、その近くに祀られた足利茶々丸夫妻の供養塔

明応7年の巨大地震

 明応7年8月25日、巨大地震が突発する。地震に続いて大津波が東海地方沿岸に押し寄せ、西伊豆沿岸部で波高5m、焼津辺で8mの津波、紀伊半島沿岸ではリアス式海岸が災いして津波の規模が増した。
 北条早雲の居城という興国寺城でも津波が城下を洗ったはずだが、おそらく明応4年の小田原での経験が早雲を突き動かす。
『北条五代記』はこの時のことを前後関係を誤認しつつも、ほぼ実態を捉えて記述した。
 早雲は今川氏親からの援兵300を得て計500人で清水から兵船10艘に乗って伊豆松崎・仁科・田子・安良里に上陸して伊豆平定戦の後半戦を開始したのである。しかし、武装上陸したものの、どの家にも数人ずつの病人が横たわり、動ける者は山中に逃げ去って、抵抗する者もなかったという。
 津波直後の被災地に上陸したのだから、病人というのは津波で溺死せずにけがを負った人々が集落内に残り、動ける者は武装した早雲の軍勢を見て山中へ逃げてようすをうかがっていたというのが実態であろう。

足利茶々丸の自決

 北条早雲にとって津波の被災地に武装して乗り込むのは小田原以来二度目である。津波の惨害は熟知しているから、被災者への救護策を進めるうちに早雲の軍門に降る者が現れ、たちまち軍勢は千の単位になった。
 この結果、伊豆奥で早雲に抵抗を続ける者は下田の深根城主関戸播磨守だけとなった。関戸の立て籠もる館は稲生沢川の中流域の現下田市堀内にあり、内陸部のために津波被害を受けなかったのであろう。早雲は、この城館に迫ると付近の民家を壊して堀を埋め、攻め落してしまうのである。城内の女子どもまで一千余の首が、この城館の周囲に晒されたという。
 深根城には城主関戸氏の他に、驚くことにあの堀越御所足利茶々丸が籠城していた。茶々丸は明応4年に島へ落ちた後、武蔵の上杉氏の元に立ち寄り、次いで早雲の好敵手武田信縄の元で富士登拝をした。その後の足取りは記録から消えるが、『王代記』という文献に明応7年8月に自害とあるというので、茶々丸の長い抵抗戦の結末は下田の深根城であり、津波の惨害でついに絶望に至り、自害したというのが正しい理解であろう。
 深根城主関戸播磨守は他国へ落ち延びることを試みたのか、天城峠を目前にした河津町梨元に永眠した。
 かくて五年におよぶ伊豆国の戦乱は、人智を越える大自然の猛威の前に沈黙に至ったのである。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年12月3日 日曜版掲載