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落城伝説と津波11津波と牛と早雲

 北条早雲の小田原攻めは、千頭の牛の角に松明を付け、荒れ狂う牛の群れを先陣に城下に攻め込んだという伝説が良く語られる。唐突かもしれないが、ここに登場する「牛」は、「津波」を比喩(ひゆ)した表現だと私は考えている。根拠のない話ではない。

龍巣院河津町梨本の供養塔

下田市箕作の龍巣院は深根城主関戸播磨守開基の寺(写真左)、早雲との戦いに敗れた二代関戸吉信は河津町梨本に供養塔が

不気味な怪物「赤牛」

 伊東市域には不気味な「赤牛」が住むという伝説地が三箇所も点在している。何れも沢筋や池に面した土地にまつわる伝説である。全国的に牛や赤牛の伝説を集成した笹本正治氏(信州大学教授)は、牛の正体を土石流であろうと推定されている。不気味な過去の土石流災害を怪物の牛に例えて伝えているのだと分析しているのである。
 筆者が気づいた事例では、江戸時代の河川治水の工法に「牛出し」と呼ばれるものがあり、これは現代の言葉で言えば「導流堤」にあたるものと推定される。そうだとすると、ここでも牛は土石を流しながら荒れ狂う洪水を意味していることになろう。こうした事例から牛や赤牛と表現される怪物の正体は、荒れ狂う土石の奔流を例えたものとみられるのである。
 早雲が小田原城を攻めたのも本物の牛を先陣に立てたのではなく、津波という魔物の牛の後を追うように早雲の軍勢が小田原城下に押し寄せた姿を民衆の記憶として伝えたのであろう。

早雲の小田原攻撃

 『鎌倉大日記』という記録は戦国時代の関東域の動きが記された数少ない記録である。その中の明応4年の項に「八月十五日鎌倉由比浜海水到千度檀水勢大仏殿破堂舎屋溺死人二百余、九月伊勢早雲攻落小田原城大森入道」と記されていて、大津波で鎌倉と由比に溺死者二百人を出し、9月には早雲が小田原城を攻め落としたという。
 他の史料は小田原「自落」と記すものもあり、津波と早雲の軍勢の両者によって大森氏は抵抗をあきらめたとのニュアンスが感じられる。
 この後、早雲は小田原に後継者北条氏綱を置き、自らは、興国寺城韮山城かに戻って、未だ道半ばの伊豆征服戦を続け、狩野氏との対決を本格化させた。やがて明応6年12月には狩野氏を屈服させて伊豆の北半をようやく手中にするのである。

巨大地震の連動の可能性

 明応4年の相模湾地震から3年後の明応7年(1498)8月25日、東海から四国沖を震源として再び巨大地震津波が発生した。その惨害は、四国から伊豆半島西南岸まで広い範囲で数万人規模の犠牲者を出した。
 歴史上、大地震や津波が頻発する時期は時々あり、隣り合う震源域が連動することで大きな地震が、同時かまたは数年の範囲に集中して発生することがある。身近な事例では、元禄関東地震と宝永東海東南海地震、さらに宝永の富士山噴火は連動して発生した可能性が高い。
 現代の地震学者たちは連動型巨大地震の発生を懸念している。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年11月27日 日曜版掲載