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落城伝説と津波10巨大津波と北条早雲

 『鎌倉大日記』という史料に記された地震は他の地震と混同されたわけではなく、明応4年(1495)発生の相模湾地震を記しており、宇佐美遺跡で見つかった中世の津波堆積物も明応4年の相模湾地震によるものと結論できる。さらに、近年では『熊野年代記』という史料にも「鎌倉大地震」と記した史料の存在が判明し、明応4年の相模湾地震の存在はほぼ確実となった。
 前回写真で示したこの時の宇佐美での津波堆積物の検出標高は7.8メートルである。宇佐美付近では、その後の地震で地盤の隆起や沈降は知られていないので、この標高値以上の津波が明応4年津波の波高と思ってよい。同じ津波は鎌倉大仏殿付属の坊舎に到達したというので、鎌倉での波高は20メートル近いと推定される。明応4年の地震で巨大津波が相模湾岸を襲ったのである。

熊野年代記

『熊野年代記』(写真左)とその明応4年項に「鎌倉大地震」と記された部分

足利茶々丸の島への脱出は

 話は戻るが、足利茶々丸が伊豆諸島のいずれかの島へ落ち延びたのが明応4年であった。東伊豆最大の武士伊東氏が北条早雲に降るのが同じ明応4年2月5日。宇佐美氏の動向は分からないが、少なくとも宇佐美城下は明応4年8月15日には津波被害を受けたことであろう。このためか宇佐美氏は先祖伝来の一族墓を途絶させ、寺院も山へ移転したという伝承が多い。
 明応4年2月までに宇佐美氏と伊東氏は北条早雲に降るから、この時までに足利茶々丸は数百騎を動員できる有力家臣を二人も失った。茶々丸に残された道は狩野氏を頼るか、上杉氏の勢力下にある「島」へ落ち延びるかしか残されず、島へ落ちることを選んでいる。

明応4年津波の挙動

 宇佐美・伊東の敗北から数ヵ月で相模湾岸は明応4年の津波に襲われて壊滅的な状態に陥る。前述したように宇佐美で7.8メートル以上、鎌倉で20メートル近い津波だから、小田原も壊滅的な被害となったことであろう。
 ところで、北条早雲は伊豆平定戦がいまだ混迷のままで、前半戦の終結もみない明応4年9月に小田原を急襲している。
 実は早雲の小田原奪取は有名な大事件であるにも関らず、はっきりとした年月日が確定できていない。それを記す記録にズレがあるからで、最も有力な説は明応4年9月説である。
 早雲は小田原奪取の際に奇計をめぐらせて小田原城主大森藤頼を屈服させたと伝承されている。その奇計とは箱根で狩を催すので、勢子を小田原城の背後に入れると偽って大森氏を安心させて奇襲したとか、千頭の牛の角に松明(たいまつ)を結び付け箱根の山を駆け下らせて小田原城に攻め入ったとかいう奇襲である。
 こうした作り話的な奇略は、これまでの歴史家は他に説明の手段がないので、マユに唾しながらも苦しい説明をしてきた。しかし、角に松明を付けた牛の大群とは、実は巨大津波を指すのではないかと考えるに至った時、衝撃的な仮説に自分自身が驚かされることになった。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年11月20日 日曜版掲載