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落城伝説と津波9明応四年の大津波を見た早雲

バブル景気の頃、私は伊東市宇佐美地区の中央低地の中で縄文時代の遺跡の発掘調査を進めていた。そこは標高7メートルほどの低地で、縄文期の地層に達するには何層かの地層を掘り進む必要があった。現地では、地表近くの中世の遺物を含む灰色の粘土層の上下に明るい褐色の砂層が挟まるように見つかるので、性質が大きく違うその地層は現地調査のあわただしい中にでも印象深く感じていた。

津波堆積物層と出土中世陶器

宇佐美遺跡検出の津波堆積物層(写真上の→印から右の不規則な砂層)と津波被害を受けた出土中世陶器

明応四年と明応七年の津波

数年後、津波研究の専門家からレクチャーを受ける機会があり、「津波(つなみ)堆積物(たいせきぶつ)」という地層があることを教えていただいた。
津波堆積物とは津波を受けた土地に残る特有の地層で、海底の砂などが津波で陸上に持ち上げられて再堆積するもので、顕微鏡下では海に特有の微生物遺体をたくさん含むことで証明できるそうである。津波研究の専門家たちは、国内各地でボーリング調査をして地層を調べ、津波堆積物の姿から過去にその土地を襲った津波の周期性や規模を推定する研究を重ねていた。
宇佐美でも過去4千年の間に何回かの津波堆積層を確認したが、中世の地層として私が印象深く感じていた地層は明応年間にこの地を襲った大津波がもたらした津波堆積物であることがほぼ確定的となった。

巨大津波と歴史の転換点

大地震が数年の短い期間に集中的に発生してしまう時期があることは、日本史上に何回かあり、政変と結びつく例も多い。北条早雲が伊豆に攻め込んだ明応年間は、巨大地震と津波が各地を連続的に襲った時期のひとつでもある。
 明応年間の記録のなかで津波を伴うプレート型の大地震は、明応4年(1495)8月15日発生のものと明応7年(1498)8月25日発生の地震のふたつがある。明応4年地震の被害を伝える史料は『鎌倉大日記』という記録一点のみだとみられていたので、歴史地震研究の大家宇佐美龍夫氏は、この地震の存在を疑問視して、明応七年地震との混同と結論されてきた。しかし、『鎌倉大日記』の記述では鎌倉大仏殿に津波が到達して、溺死者二百余人しており、それほどの大被害を出す地震の震源は相模湾沖を想定せざるを得ない。一方、明応7年の地震津波は東海地方から四国沖を震源とする地震津波で、この場合は伊豆西海岸以西が大被害となるものの、相模湾域に大津波が到達するとは考え難い。
その根拠は、江戸時代末期の安政地震津波との比較にある。安政地震と明応7年地震は同じ震源域で発生した地震だが、この津波は、下田と伊豆西海岸に大被害をもたらしはしたが、伊東・宇佐美・川奈などでは被害は記録されていない。
つまり、鎌倉大仏殿に至るほどの津波は相模湾を震源に考える必要があり、明応4年地震は相模湾地震、明応7年地震は駿河湾以西を震源とする別の地震津波だと整理できるのである。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年11月13日 日曜版掲載