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落城伝説と津波7大甕をたたき割り、城に放火

発掘調査では遺物を探すだけではなく、どういう状態で使用され、廃棄されたか、あるいは、城にどういう施設があったかを明らかにできる。

河津城大甕出土状況

河津城の割られた大甕出土状況(写真上)と復元された大甕(写真下) 写真提供河津町教育委員会

城内に器物が散乱したまま

河津城出土の大量の常滑焼の大甕(かめ)は2メートルほど高低差のある高い位置から下に投げつけられるようにして徹底的に割られた状態で出土した。鎌田城の場合も大甕は割られて、破片が広い範囲に飛び散っていた。
 篭城戦が終結した時、城内の器物は徹底的に破壊されるようで、特に大甕は持久戦に備える水・食料・油などが貯め置かれる設備のひとつと見られて徹底的に破壊されたのであろう。
近年の国内各地での城郭調査では、城の機能を停止させるための「破(は)城(じょう)」行為の痕跡が見つかっており、甕を割る行為も一種の破城なのであろう。
鎌田城では、郭(くるわ)(城内を堀や土塁で分割した守備空間)ごとに雨水の排水溝が構えられていたが、その幅15cmほどの細い溝の中には焦土(しょうど)と木炭が層を成して溝を埋めていた。つまり、これは落城時に火をかけられて炎上し、その火災の後始末が何もされないまま放置されたことを意味しているし、火災の痕跡がそのまま残っているのは、城として後世に再利用されることもなく、放棄されたことを意味している。
河津城の場合も甕の破片は割られた当時のままで、破片は移動しておらず、その隙間(すきま)で検出した米などの穀物は炭化していた。落城時に城全体に火が付けられ、そのまま放置された結果であろう。

従来の城郭研究と食い違う成果

河津城と鎌田城の発掘調査では、両城の落城は15世紀末という結論が得られた。その根拠は、どちらも出土した大甕が割られたうえに火災に遭った状態で出土したからである。しかしこの結論は、実は従来の城郭研究の専門家たちが示していた結論と大きく違っている。
城郭を専門に研究する方たちは城の位置、郭の配置、土塁や堀などの施設の形態や組み合わせを図面にして、年代観や築城意図などを考察する。この手法で城を研究する分野を「縄張(なわばり)研究」と呼んで、戦前からの研究蓄積がある。山の中で発掘のような時間のかかる調査をせずとも、簡単な測量で全体像が捉えられるので、今でも城郭研究の主流を占める方法である。
その縄張研究者たちが河津城と鎌田城に出した所見は、いずれも16世紀の後北条氏の城で、それ以前には遡(さかのぼ)らないという。特に鎌田城は、城域約1万5千平方メートルという規模の大きさから、地侍層の城ではなく、後北条氏でも後半期の有力支城と見なければ説明できないとの見方がこれまでの主流だったのである。
後北条氏の城とはつまり、北条早雲から何世代か後の子孫たちの城であるとの所見であり、発掘調査による結論との間に百年近い食い違いが生じた。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年10月30日 日曜版掲載