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落城伝説と津波6茶会を開く上級武士の城

河津城では、この城を落城させたのが北条早雲であることが発掘調査で確定された。また、この城の白米伝説も歴史的事実と実証され、確かな年代観を与えることができた。考古学的な手法が伝説の傍証となって地域の歴史理解が大きく進むのは画期的な成果と言える。

鎌田城の発掘状況

鎌田城の発掘状況土塁と門の柱穴が見える(写真上)、土塁の上面には投石用の飛礫(つぶて)が準備されていた(写真左)

北条早雲が落城させた城

伊東の鎌田城についても平成15年に発掘調査を実施した。着手前に城郭の発掘がどう行われるのか、経験のある先輩たちに聞いて回ると、三島市の山中城を発掘された鈴木敏中氏から「城では、いくら掘っても遺物は出土しないので、期待しない方が良い」とのアドバイスをいただいた。つまり城はあくまで篭城の場で、生活の場ではない。このため館と違って城に生活感のある物資が持ち込まれることは少ない。豊臣秀吉が数万の軍勢で攻めた山中城でさえも遺物が出土しないとすると、小さな山城では一点も出土遺物がないという事態もあり得る。
ところが、予想に反して鎌田城では多くの陶磁器が出土。常滑(とこなめ)焼(やき)の大甕は河津城のものと同じ15世紀末、古瀬戸(こぜと)の小皿や擂鉢(すりばち)も15世紀末の年代観。河津城では抹茶用の石臼が出土し、鎌田城では中国製青磁(せいじ)の茶碗や酒器のカワラケも出土した。
篭城戦を直接的に推定できる遺物として河津城では鎧(よろい)の威板(おどしいた)、鎌田城では折れ曲がった小刀が出土した。

城内の生活

河津城と鎌田城は直線距離で約30キロ離れており、城の規模や構造も大きく違う。しかし、出土遺物を見比べると非常によく似た年代と内容を示している。両城とも同じ敵―北条早雲に備えるために物資を城内に持ち込んで立て篭もったのであり、城内の人々の生活文化もほぼ同水準とみられる。
 河津、鎌田両城とも青磁茶碗を使う大名茶が行われ、カワラケという土器を用いた酒宴が開かれている。カワラケは宴席独特の酒器である。料理には開発されたばかりの擂鉢が使われたが、擂鉢や石臼が城から出土するのは、粉から作る料理が城内で飲食されたことを意味する。つまり、うどんや団子のような粉から作るやわらかい食感のメニューを城内に準備していたのである。
中世段階では回転式石臼は城館跡など経済力と権力を集中させた場所にしか出土しない。石臼や擂鉢の重要性は、そば粉や小麦粉などの粉食品を普通に食べる今日の常識からは実感しにくいが、製粉技術が普及していない中世段階では力で噛(か)み砕(くだ)く食品ばかりになり、粉製品の貴重度は今と比べ物にならない。石臼は江戸時代になってようやく庶民層に普及するもので中世段階では城・寺・館・鉱山のなかでしか見つからない。
河津城出土の石臼は城内に立て篭もった人物が茶の湯をたしなみ、当時の高級食材を口にできる優雅な趣味をもつ階層であったことを示している。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年10月23日 日曜版掲載