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落城伝説と津波5進攻から四年、伊豆北半を制圧

狩野氏が北条早雲への長い抵抗戦に負けたのは明応6年(1497)12月とみられる。これにより伊豆のおよそ半分が、ようやく北条早雲の勢力下に入った。侵攻開始から4年以上が経過していた。
残る抵抗勢力は南伊豆の城館に拠る堀越御所の遺臣と西伊豆の土豪たちである。
早雲が勝利に至った理由は、江梨の鈴木、大見の三人衆、土肥の富永、田子の山本、雲見の高橋などの地侍が早雲侵入の早い時期に早雲側につき、古い歴史をもつ宇佐美・伊東・狩野という上級武士たちに対して下克上の姿勢を貫いたからであると分析できる。一方で、古い勢力の動きに決別することができずに反早雲側の者も多かったはずだが、彼らの名は今に伝わっていない。いずれにしろ、早雲の侵入によって、伊豆の武士たちは自国内で戦乱状態に陥った。

河津城

河津川河口から遠望した蔭山氏の居城「河津城」この城では消火のための水がなく、白米を被せて火矢を防いだという落城伝説がある

少ない戦国時代史料

ところで、この時代の古文書や記録類の数は非常に数少ない。古文書の残存数は江戸時代初期を境にして、それ以前のものは極端に数が減る。このため、ごく基本的な情報でさえも戦国時代以前の歴史はわからないことの方が多い。 宇佐美家のことにしろ伊豆国守護代という顕職にあったと伝えながら、それが事実かどうか、本当に堀越御所で討死したかどうかは文書史料が残っていないので確認できない。狩野家も同じで、狩野介と呼ばれて伊豆国を代表する武士であるのにも関わらず直接的な文書史料は数少ないのである。このため、たいへんもどかしいが伊豆の武将たちの動向は、様々な状況証拠や間接証拠で推測するしかないのが現状である。 では、文献以外の史料からは何を語り得るのであろうか。例えば考古学は、ここ30年の間に急速に中世史上の研究蓄積を積んできた。同時に伝承や伝説の類も新たな視点で見ると多くの歴史的事実を反映している例が多く、たいへん興味深い。

河津城発掘調査で見え始めた

平成3年、河津町で山城の発掘調査が行われた。調査を指揮した宮本達希氏から「伝説どおりの焼けた米や常滑焼の大甕が出土している」と聞いて現地を見学させていただいた。 急峻な山の山頂が何段かに整地されただけの山城だが、大量の甕(かめ)が叩き割られた状態で出土。篭城した蔭山(かげやま)氏が城内に水が豊富にあると見せかけるために白米を流して敵の目を欺いたという伝説が残っていた。 その白米伝説がいつ起こった事件か、また本当の事実が伝説化したものか確認のしようがなかった。しかし、発掘の結果、炭化した米と共に常滑焼の甕が大量に出土し、その年代観は15世紀末と確定された。 つまり河津城の落城は北条早雲が伊豆平定戦を進めた時のものであり、文献資料が無くとも伝説と出土史料の合致で確実な歴史とすることができたのである。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年10月16日 日曜版掲載