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落城伝説と津波4狩野家の抗戦と地侍たち

北条早雲が伊豆に侵入したとき、伊豆の武士たちは、いち早く早雲に味方する地(ぢ)侍(ざむらい)層と早雲に徹底抗戦を続ける守旧派の両派に分かれた。そのため伊豆各地に戦乱が広まったが、最も頑強に抵抗したのは狩野(かの)氏である。

伊東家文書

伊東家が北条早雲の家臣となったことを示す明応4年の「本郷」宛行状。この伊東家文書(東大史料編纂所蔵)は「伊東伊賀入道が狩野道一と戦った功績で本郷(現伊東市)知行を許す」という早雲花王入りの内容

狩野道一の頑強な抵抗

明応4年(1495)の伊東家文書(写真)には「狩野(かの)道一(どういつ)進退(しんたい)」に際して、伊東家は狩野氏と別行動を取って、早雲側に降ることが決断された。この明応四年の合戦の舞台は伊東の鎌田(かまだ)城であろうが、その合戦以後も早雲と反早雲側の合戦は続き、伊豆出身の武士のなかで盟主的な狩野一族は頑強に抵抗を続けた。
狩野家は明応5年には、いったんは本拠地である柿(かき)木(ぎ)城を敵に取り囲まれるようである。この合戦の詳細は判然としないが、西伊豆雲見の高橋将監(しょうげん)という武士に対して早雲が感状を出しているので、柿木で合戦があったことは確実である。しかし、この柿木の合戦ではむしろ早雲方が城を取り囲みながらも狩野氏を降すには至らなかったものとみられる。
翌明応6年4月には修善寺の柏(かしわ)窪(くぼ)城で何度目かの狩野氏と早雲との激闘がある。この時、早くから早雲側に味方していた「大見三人衆」と呼ばれた梅原や佐藤という大見の武士たちは早雲から感状を受けている。
この柏窪城の合戦でも決着はつかず、翌明応6年(1497)7月には狩野氏は本拠を遠く離れた伊東に攻勢をかけている。
現在の伊豆市から伊東にかけて繰り広げられた何度かの決戦にようやく決着がついたのは明応6年12月に至ってからとみられる。これは前述した大見三人衆への感状の別の一枚に敵中での長期の籠城を慰労する早雲の言葉があり、狩野家の抵抗が止んで戦いがようやく終結した情勢を反映している。つまり、大見三人衆は4年もの間、籠城戦を続けていたのである。

下剋上の時代

狩野家は元をたどれば伊東・宇佐美と同族であり、藤原南家の分流として平安時代から伊豆に土着した貴族出身の武士である。南北朝期には関東を実質的に支配する上杉氏との関係を強める一方で、駿河の早雲・今川連合との対抗勢力の盟主だった。
その狩野氏は明応2年に宇佐美氏を失い、明応4年に伊東という盟友を失いながらも早雲への抵抗を頑強に続けた。しかし、4年の間、修善寺から伊東辺で繰り広げられた一進一退の攻防戦に力尽き、明応6年12月には柿木の狩野城が陥落して決着した。狩野城落城のいくつかの悲話は、伊豆北半がようやく早雲の勢力下に入ったことを語っている。
戦国時代とは、それまでの支配階級が下位の者に滅ぼされる下剋上の時代と言われる。その意味では足利・上杉・狩野・伊東・宇佐美という平安以来の血筋の武士たちが、伊豆に育った地侍たちに攻撃されて滅びる姿は正に下剋上の時代であることを示している。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年10月9日 日曜版掲載