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落城伝説と津波3宇佐美家と伊東家の迎撃

堀越御所が早雲によって明応2年(1493)に急襲された時、宇佐美貞(さだ)興(おき)は御所内で討死したと伝えられる。この戦いで落ち延びた茶々丸は明応4年に再び早雲との戦いに敗北して島へ落ち延びた。この2年の間に何が起きていたのであろうか。

宇佐美家累代供養塔

宇佐美城山の宇佐美家累代供養塔
宇佐美家累代墓は早雲との戦いより古い時期の石塔で占められている。宇佐美城落城以後は別の場所に本拠を移したのか

宇佐美貞興の討死

北条早雲が伊豆への侵入戦を開始した時の宇佐美家の動向は正式な文献史料が伝わらず殆ど確認できない。地元の伝承では、この頃の宇佐美家は伊豆国守護代を務めて全盛期を迎えたが、早雲の急襲時に宇佐美能登(のとの)守(かみ)貞(さだ)興(おき)は御所内で戦って討死し、その父左衛門尉(さえもんのじょう)祐(すけ)孝(たか)が息子の冥福を祈るために東光寺を建立したと伝えている(「宇佐美村誌」)。
御所内での討死は伝承であるために、もとより証拠としては限界のある話だが、少なくとも宇佐美家は早雲と戦った後、一族が根絶やしにされることはなく、東光寺を建立する余力は残されたとみるべきであろう。
また、宇佐美の城山には宇佐美一族の墓所と伝える石塔群があるが、その石塔の銘文や形を詳細に検討すると貞興討死以降の年代に建てられたものはほぼない。このため一族累代墓の造営が早雲進攻で途絶したとみることができるのである。つまり、宇佐美貞興討死の後、本拠宇佐美城も早雲方に取り囲まれて落城し、生き残った宇佐美氏は累代の墓を営む場を別の場所に移したものと推測できる。

伊東家の動向

『堀越御所の後継者足利茶々丸が、島へ落ち延びた明応4年(1495)という年は、東伊豆最大の武士伊東氏が早雲への抵抗を止め、北条家の家臣団のひとりに組み込まれることになった年でもある。
明応4年に伊東家が北条方に屈したと断定する根拠は、写真(落城伝説と津波4に掲載)の古文書である。この年の2月5日に伊東伊賀入道に早雲が与えた文書で、江戸時代に旗本となった伊東家に伝来した。この文書の中で狩野道一との合戦に功績のあった伊賀入道に伊東本郷を安堵(あんど)すると記している。
この一枚の文書の存在で、伊東家は北条の家臣となったことが確実だが、ひとつ問題がある。この文書内容の解釈によっては戦国期の勢力関係のイメージが大幅に違ってくるのである。
昭和33年の旧『伊東市史』に示された見解では、伊東家は南北朝動乱期に各地で転戦するうちに伊東の本拠を失っており、早雲の伊豆侵攻を機に伊東家はいち早く早雲方につくことで本拠地をようやく回復したと理解してきたのである。
しかし、新しい伊東市史の編者のひとり山田邦明氏の近年の研究では、この文書への解釈が大きく転換された。南北朝期に伊東家が本拠を失っていたと見るのは早計で、むしろ多くの所領を維持していた伊東家は、当初は早雲に抵抗し、後に早雲に降る経緯を経たために伊東家発祥の本拠地「本郷」だけがようやく安堵され、他の所領を召し上げられたとみるのである。

(日本考古学協会会員 金子浩之)

伊豆新聞/熱海新聞/伊豆日日新聞 平成23年10月2日 日曜版掲載