静岡戦国奇譚

中部伝承焼津市
焼津市家康が授けた「釜蓋」姓

江戸幕府を開いた徳川家康の話はたくさんあり、駿河、遠江、三河、尾張、の各地には、似たような話が数多く伝えられています。焼津にも二、三伝わっていますが、このお話もそのひとつです。
全国各地で戦いが続いていた戦国時代、焼津周辺も戦いにまきこまれていました。そんな戦国時代の終りのころ、いまからおよそ400年くらい前の天正年間(1573~1598)のことです。
ある日、戦いに負けた徳川家康は、命からがら瀬戸川をわたり、葦の茂る城之腰(じょうのこし)近く(小川新町二丁目あたり)まで逃れてきました。そして、ある一軒の農家を見つけ、その家に逃げ込みました。
ちょうど夕暮れ時で、おばあさんがひとりでみそ豆をゆでようと、かまどのところで大釜に豆と水をいれるところでした。そこへ飛び込んできた家康は手をあわせて、おばあさんになんとかかくまってくれるようにたのみました。
最初はなにがなんだかわからなかったおばあさんも、事情が分かるとみそ豆を煮ようとしていた大釜の蓋をとり、豆と水の入った大釜の中に家康を押しこみ蓋をしてしまいました。
そして、いかにも豆を煮ているふりをして、下からポチポチと火を燃やしはじめました。
ちょうどそのときです。こんどは五、六人の追手がドヤドヤッっと家の中に入ってきて
「ばばあ、この家に武士が逃げこんできただろう。どこへかくまった。隠すとためにならんぞ。」
と大声でわめきながら手あたりしだいに物をけちらかし、家さがしをはじめました。
でも、このおばあさんはたいへん度胸がある人で、
「武士?そんなものは知らんよ。いると思うなら隅から隅までさがしてごらんよ。」
と、何くわぬ顔をして、かまどの火を燃やしつづけました。
追手の武士たちは床下までもさがしましたが、逃げ込んだはずの家康が見つかりません。そこでとうとうあきらめて、引き上げていってしまいました。
追手が立ち去るのを見とどけたおばあさんは、釜のふたをあけ、
「もうだいじょうぶ。さあ出てきなさい。」
と家康を釜から出し、
「追手はもうこない。急ぐこともなかろう。腹もすいてるだろう。めしでも食べてからいきなさい。」
と、夕飯まで食べさせてやりました。かくまってもらったうえ、夕飯までごちそうになった家康はおばあさんに向かって、
「それにしても、一時はどうなるかとはらはらした。釜のなかは熱かったが、命にはかえられぬから、じっとがまんをしていた。」
といいました。そして、
「もし、わしに武運があって出世したときは、きっとこの恩をかえそう。」
と、紋の入った小づか(小刀)をおばあさんにわたすと、どこへともなく夕闇の中を走り去っていきました。
それからどれくらいの年月がたったでしょうか。
天下をとった家康は、鷹狩りの途中この地にきて、ふたたびこの農家をおとずれました。
おばあさんに与えた小づかを見せてもらい、かくまってもらったときのことをなつかしそうに話し合いました。
おばあさんとの話に満足した家康は、むかしのお礼にと、お金をわたし、この農家に「釜蓋(かまぶた)」という名字(姓)をさずけたということです。


出典/「やいづの昔話」焼津市