静岡戦国奇譚

伊豆市東部伝承
伊豆市高谷城と富永氏の館

南北朝時代のことです。富永備前守(とみながびぜんのかみ)という武士が、土肥に高谷城(たかやじょう)という水軍の城を築いたといわれますが、その城がどこにあったかは明らかではありません。
その子孫も代々土肥に住み、しだいに勢力を伸ばしていきました。
延徳3年(1491)、富永三郎左衛門尉政直(とみながさぶろうざえもんのじょうまさなお)は、北条早雲の伊豆進攻に呼応して挙兵。以後北条家臣となって重く用いられました。北条水軍の幹部として各地の合戦に出陣し、大永4年(1524)には江戸城の城代(じょうだい)に任ぜられています。
政直の子・政辰(まさたつ)も、関東各地の合戦で活躍しましたが、永禄7年(1564)の下総(しもうさ)・国府台(こうのだい)の合戦で戦死しました。
政辰の子・政家(まさいえ)は山城守(やましろのかみ)と称し、北条家五家老に列せられていました。西伊豆の井田、戸田、小土肥、土肥、八木沢、小下田、宇久須の七ヶ村のほか、相模、武蔵、上総などに計二万石余の領地を持つ大身(たいしん)でした。
政家は北条家の重臣で、小田原や江戸に在住することが多かったのですが、土肥にも立派な館を構えていました。その館は、現在の中浜の土肥館ホテルや光源寺の辺りにあったといわれます。付近一帯に御殿、馬出(うまだし)、小門(こもん)、大門(だいもん)、堀小路(ほりこうじ)などという地名が残り、いかに壮大な館であったかを物語っています。
政家はまた、戦死した父・政辰の菩提(ぼだい)を弔うため、土肥に清雲寺を創建しました。
しかし栄華を誇った富永氏も、天正18年(1590)豊臣秀吉に攻められて北条氏が敗れると、主家と運命をともにして滅びました。
現在、清雲寺に政辰と政家夫妻の墓があります。


出典/「郷土誌叢書第12集 土肥の昔話伝説」土肥町教育委員会