静岡戦国奇譚

伊豆市東部伝承
伊豆市丸山城と八木沢の入江

八木沢の海岸にある丸山は、昔は城山と呼ばれていました。その名のとおり、この山にはお城があったのです。お城は、丸山からその南側の丘陵一帯に築かれていて、大久保の天王さんあたりまでが城内だったといいます。
この城の西側は絶壁で外海に面し、丸山の東側には波静かな入江の八木沢港があって、港にはたくさんの軍船がつながれていたと伝えられます。丸山城は水軍の根拠地だったのです。
城主の名は富永山随(とみながさんずい)。土肥の殿様・富永山城守(とみながやましろのかみ)の弟で、小田原北条家に仕える船大将(ふなだいしょう)でした。山随は富永水軍を率いて、遠くの海まで合戦に出かけていきました。武蔵(むさし)(現東京都)や下総(しもうさ)(現千葉県)まで出陣したこともあるといいます。
天正7年(1579)に武田勝頼が伊豆に攻めてきたときには、「あたけ船」という大型軍船に乗り、駿河湾でたびたび武田の水軍と戦って手柄をたてました。
しかし天正18年(1590)、丸山城は豊臣秀吉の水軍に攻められて落城してしまいます。そのとき山随は、箱根の山中城へ出かけていて留守だったのです。山随はその後、徳川家康の家来となり、文禄元年(1592)に南伊豆の加増野(かぞうの)で病死したと伝えられます。
水軍の根拠地として栄えた八木沢港も、丸山城が廃城となったのちは漁港として利用されるだけになりました。江戸時代の初め頃は、松原、長藤(ちょうふじ)、上野、三田(さんた)の辺りが海岸線で、港の入口には丸山から今の国民宿舎の辺まで細長い砂洲の岬が伸び、よいきんちゃく港でした。
港はたびたびの洪水で埋まってしだいに浅くなり、それでも江戸時代の末まで小船が出入できましたが、その後人工的に埋め立てられたりもして、今は全部陸地になってしまいました。昭和40年代までは、港の一部が池となって残っていました。



出典/「郷土誌叢書第12集 土肥の昔話伝説」土肥町教育委員会

  • ※きんちゃく港…出入り口が狭く、港の中が広い。自然の地形が暴風から守ってくれるため良港とされる。