静岡戦国奇譚

浜松市西部伝承
浜松市古城の怪(三ヶ日町都筑)

三ヶ日町都筑の南端、大崎半島の近い所に、古城の跡があります。徳川時代までは、いかめしい石垣の残りや、幾重もの深いお堀のあとがあったといわれますが、今はおおかた埋められて、それと思われる畑の高低に、さつまいもや大根が蒼く茂っているのみです。
かつて、この城のお堀には、10メートル余りの大蛇が住んでいたという言い伝えがありました。その大蛇を見てしまった村人は、あまりの恐ろしさに腰がぬけて歩けなくなってしまうと言われました。ようやく家にたどりつくと、そのおそろしさが頭の中に去来して、少なくとも一ヶ月は床について、病気になってしまうというのです。
この古城は、その昔の佐久城の跡でしょうか。佐久城には、大蛇にまつわるこんな伝説が伝えられています。

永禄11年(1568)のこと。岡崎城の徳川家康は、そのころ今川方の勢力がようやく衰えだしたので、この機に浜松城に入って、駿河、遠江、三河の三国を手中に入れたいと、日ごろの野望の実現を考えていました。
しかし、浜松城に入る途中には三ヶ日町の佐久城、細江町気賀には堀川城があって、いずれも城兵が堅く守っています。
「なんとか方法はないものか」
知将・家康は、本多平八郎、小山源三郎などの幕僚と軍議をしました。その結果、「戦わずして、まず浜松城に入ることだ」と一決したのです。
永禄11年(1568)11月の末、徳川の軍勢は岡崎城を出発すると、この佐久城と堀川城を回避して、三河から宇利峠を越し三ヶ日の平山に出ました。大福寺の前を通って、さらに只木から風越峠の嶮を越して引佐町奥山を経て、井伊谷にと軍を進めたのです。
ここからも、なお山ぞいに天竜市二俣の鹿島(現在の浜松市天竜区)に出て、天竜川を渡船して東岸にわたり、東岸を下って池田(磐田市)へ。また渡船して西岸の妙恩寺に着いたのは、その年の12月15日でした。
ここで浜松城の様子を伺い、城主・飯尾豊前守が、掛川城へ所用で行った留守の間に、まんまと城を乗っ取って、目的を達成してしまいました。
しかし家康にとって、自分に反旗をひるがえす、佐久城と堀川城は、目の上のこぶでした。
そこでまず、本多平八郎と戸田三郎左衛門に手兵2000を率いさせて、佐久城を請取りに向かわせました。
一隊は佐久城の手前、津々崎と大明神山に陣を敷いて、使者を城内に出しました。
「徳川家康は、すでに駿遠三(駿河・遠江・三河)の盟主である。速やかに城を明け渡して帰順せられよ」
城内では後藤角兵衛、安形平兵衛などが集まって、にわかに軍議を開きました。ところが、
「今戦って、勝てる見込みはない」という意見と、「武士として、みすみす敵に兜を脱ぐのは恥である。敗けるまでに城を枕に討ち死にすべきである」という意見との両論が出て、なかなか決まりませんでした。そうしている内に、二日が過ぎてしまいました。
本多平八郎は、再び城内に使者を送りました。
「速やかに回答せよ。この際おとなしく城を明け渡すならば悪いようには取り計らわないが、万一如何としてもわたさぬ時は、ひともみに攻め落とすのみである」
城内ではさらに軍議を重ねました。ところがその夜、そっと城内から逃げ出す不心得者が、数多く出て来てしまったのです。それを見て、「もうだめだ」と、直ちに城の明け渡しを決議して、城門を開いて徳川軍を迎え入れたのでした。
この時の城主、浜名備前守頼近には、一人の姫がおりました。芳紀十八歳、花のような美しい姫でしたが、この様を見ると、
「わが家は、源三位頼政の末葉である。その武士の家の者が、戦わずして敵に城を渡すとは、まことに残念である。私は敵の顔も見たくない……」
と室を抜けて濠の傍に走り出てきました。そして家臣に悲憤の涙を流しながら、
「私は、たとえ生きる道があろうとも、この城を離れては何の楽しみもない。今はこの濠に入って大蛇となって、永くこの地の守護となろう。者共、この枝に枝葉が生じたならば、私の念願成就したと思われよ。」
そう言うと、手にした竹の杖を濠端の土にさして、ざぶんと飛び込んで消えてしまったのです。
その後不思議なことに、その姫のさした枯竹の杖からは、根が生じ芽を出し、葉も茂ったが、姫が土にさすとき逆さであったとみえて、枝葉は総て逆さまのまま、繁茂したということです。
先の古城の大蛇は、姫が化身したものでこの濠の主であろうと言い伝えられています。


出典/「三ケ日町のむかしばなし」三ケ日町教育委員会

  • ※物語中の浜松城は引馬城と考えられますが、文献の表記をそのまま採用しています。
  • ※芳紀…女性の若く美しい年頃。年ごろを迎えた女性の年齢。