静岡戦国奇譚

森町西部伝承
森町徳川家康と三倉の姓

今から400年も昔。徳川家康と武田信玄との間に、はげしい戦があった頃のことです。
ある時家康は、浜松城から北へと出陣しました。天野宮内衛門(あまのくないえもん)という武将が守っている犬居城を攻め落とそうと考えたのです。
しかし、ちょうどその時、大雨が降り続き気田川の水があふれていました。家康軍は川を渡ることができず、城を攻めることができませんでした。そのうえ、持ってきた兵糧も残り少なくなってきたので、兵をまとめて引き上げることにしました。ところが、途中で道に迷い、兵がばらばらになってしまいました。
天野方は、この様子を見て
「それ、敵は逃げ出したぞ、討ち取れ!」
とばかりに、弓や鉄砲を射かけながら、どこまでも追いかけてきました。
徳川方は、道も方角もよく分からない山の中での戦いで、多くの兵が傷つきたおれました。大将の家康も、鉄砲で左ももを打ち抜かれてしまいました。それでも、わずかな家来とともに、懸命に逃げたのです。そして小奈良安(こならやす)から田能(たのう)、大久保(おおくぼ)を通って、命からがら中野(なかの)の田口家(たぐちけ)へとたどり着きました。しかし、田口家には隠れる所がありません。仕方なく裏山の大きなカヤの木の根もとにあるほら穴の中で傷の手当てを受けました。手当てを受けている間にも、敵が迫ってくる様子なので、ゆっくり休むこともできず、急な坂道を這うようにして、やっとのことで三倉の矢部久右衛門(やべきゅうえもん)の家にたどりつきました。
久右衛門は、傷ついた家康の姿を見て、たいそう気のどくに思い、家にある三つの倉のうち、道具を入れておく倉の中に案内し馬のくらを三つならべて、その下にかくれているように言いました。家康は、身をちぢめ息をころし、祈るような気持ちで隠れておりました。もし敵兵に見つかったら、すぐに切腹しようと、短刀をぬいて腹にあて、覚悟を決めておりました。
まもなく大ぜいの敵兵が、倉の中までやってきて、天井から床下まで探しましたが見つけることができず、くやしそうに立ち去って行きました。
しかし敵兵がもう一度探しにくる恐れがあると思った家康は、用心深く、先ほど敵兵が探していた長持(ながもち)のふとんの下にもぐりこみました。しばらくすると、思った通り敵兵がもどってきて、見落とした所をていねいにさがしはじめました。しかし、今度も家康を見つけることができませんでした。敵は見はりの兵を残して、天方城(あまがたじょう)へと引き上げていきました。
九死に一生を得た家康でしたが、敵の見はりの目が厳しいので、浜松城へ逃げ帰ることもできません。この村には医者もいませんでしたが仕方がないので、矢部家の北の釈平(ほらだいら)にある栄泉寺(えいせんじ)に、傷がなおるまでかくまってもらうことにしました。
栄泉寺の川をへだてた向かいには、小野万太夫(おのまんだゆう)という庄屋がおりました。万太夫は、たいへん優しく親切な人でしたので、傷ついた家康に同情して、毎日食事を作ってあげたり、よもぎの葉の風呂をたてて、傷の手当てをしてあげたりしました。
家康は、この人たちの世話になりながら、十四、五日の間、傷の手当てを続けました。日がたつにつれて、傷の具合もよくなり、敵方の見はりの目も、うすらいできたので、五月五日のしょうぶの節句の日に、栄泉寺や世話をしてくれた村の人たちに別れをつげ、浜松城へ帰って行きました。
その後、家康は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸に幕府を開きましたが、この時のことは忘れていませんでした。倉にかくまってくれた矢部家には「三倉」という姓と土地を与え、最初に逃げ込んだ田口家と、食事や風呂の世話をしてくれた庄屋の小野家には、徳川家で使っている「葵(あおい)」の家紋の使用を許したということです。


出典/「森町ふるさとの民話」森町教育委員会

  • 長持…衣服・調度品などを保存しておく、蓋(ふた)つきの長方形の大きな箱。