静岡戦国奇譚

掛川市西部伝承
掛川市地名"吉松"の由来

ある日、山口の郷辺りでのできごとです。おばあさんがいつものように、野良仕事のために畑に向かっていると、どこからともなく声がしました。
「おばば、おばば…。」
「あれ、誰だよう。わしを呼ぶのは」
声がする稲むらの中を良く見ると、なんと立派な身なりの武士が隠れているではありませんか。
「敵に追われ難儀しておる。どこかよい隠れ場所を教えてくれ。」
おばあさんは、びっくりしてしまいました。でもどこか品のよいお侍なので心を落ち着けて言いました。
「お侍様、ようわかりましただ。おらにまかせんさい。」
さっそくおばあさんは、自分の着ていた野良着と田笠を渡して、
「さあ早くこの着物と笠を着とくんない。気の毒だけえが、下のお着物が見えんようにしとくんないよ。」
「かたじけない。」
おばあさんは、お侍が着物を着終わると、
「さあ、お侍様。わしについておいでんさい。」
そう言って、篭を背負って歩き出しました。お侍も前かがみになって、その後を付いていきました。
そこへ追手の敵兵が五、六人刀を抜いたまま飛び出してきたのです。
「やいやい、ばばあ。この辺りで立派な成りの武士を見かけなんだか。」
「隠すとためにならんぞ」。
おばあさんは、後ろを付いてくるお侍に、
「これじいさん、土下座しい」と声をかけ、二人で土下座してこう言いました。
「はいはい。一時ほど前に、あの道を北の千羽山の方へいっただ。赤い立派な成りの方だっただ。」
「そうか。それ、北だ。北へ行くぞぉ」
追手達は疑いもせず、北へ走っていきました。追手が見えなくなると、おばあさんはこう言いました。
「お侍様。あの池の向こうにいっぱい葦(よし)が茂っているだら。その葦の中に太い松がある。あの葦ん中にお隠れになっておいでんさい。」
「恩にきるぞ。」
お侍は、そう言うと葦の中に隠れました。
それから何時間経ったでしょう。すっかり暗くなってから、おばあさんはこっそりと様子を見に来ました。ござやおむすびなどを持ってきたのです。
「お侍さま、おらだよー。」
「おう、おばば、ここだ。ここだ。」
お侍は上手に隠れていました。食事を渡すと大喜びで、稗と麦のおむすびをうまそうに食べました。
「うん、うまい。こんなうまいものははじめてじゃ。」
「ほんとでござんすか。食べ終わったら、このござを体に巻いてお逃げんさい。途中、お腹がすいたら、この切干芋を食べんさい」
「おばば、この恩は忘れぬぞ。」
そう言い残すと、お侍は葦の中を逃げて行きました。

それから、七、八年。おじいさんの弥左衛門(やざえもん)はもう世を去り、おばあさんは息子夫婦や孫と仲よく暮らしていました。そこへ突然、紋付、羽織、袴の立派な侍二人がおばあさんの家を訪ねてきたのです。ちょうど家にいた息子は、どうしておさむらいが来たか判らないので、
「ちょっと、お待ちんなっとくんない。」
とおばあさんを、あわてて呼んできました。すると二人のお侍は、こう言いました。
「我らは家康様の遣いで参った。殿が敵に追われた時に、婆殿に助けていただいたとのこと。お礼に参上するのが遅れてまことに申し訳ござらぬ。」
なんとあのお侍は、徳川家康だったのです。
あの時、戦いに敗れた家康は、東へと逃げていました。浜松から引佐まで一緒だった大勢の供の者も、天竜川を越え掛川城の天守閣が見える頃にはわずか二人だけになりました。でも、追手は多勢。敵の大将を追うのですから、誰も諦めようとはしません。そして、家康ただ一人になってしまった時に、おばあさんに出会ったのでした。
「あれから殿は夜は走り、昼は山に隠れて無事城にもどられた。その後は運が開けて、勝ち軍(いくさ)となった。婆殿によい隠れ場所を教わって命びろいをしたおかげだと度々おっしゃられた。お礼にあの葦(よし)と松のある一帯を婆の家に贈るゆえ、よいように使っていただきたい。」
「えー、あのお方は家康様だったのかね。」
今度はおばあさんの方が、腰が抜けるほど驚いてしまいました。
それからその葦の原は葦松(よしまつ)と呼ばれ、働きものの息子夫婦によって開墾されました。その後年月を重ねて吉松(よしまつ)へと変わり、その辺りをおばあさんの夫の名をつけて弥左衛門新田と呼ぶようになりました。また、虚空菩薩像を祀って戦死した侍を供養したということです。時に宝暦8年(1758)5月のことでした。その後に、この菩薩は本所村へ寄進されたそうです。

出典/「掛川のむかし話」掛川市教育委員会社会教育課