静岡武将列伝

家紋・山内一豊

山内一豊

山内一豊イラスト

信長・秀吉・家康と三英傑に仕え、関ヶ原の戦いの命運を決めた武将。

 山内一豊の人生は、織田信長に出会ったことで大きく変わり始める。夫人の内助の功に助けられ信長の目に留まり、羽柴秀吉に与力として付けられた。秀吉に家臣として仕え、長浜城2万石の城主にまで出世する。そして天正18年(1590)一豊は、秀吉の天下統一を決定づけた小田原攻めに、豊臣秀次を補佐する武将として参戦。3月9日の山中城攻めで挙げた戦功が認められて、掛川城6万石を任された。この掛川城は、秀吉にとって重要な意味を持っていた。
 秀吉は支配を盤石にするため、自らに継ぐ有力者である家康を抑え込まなくてはならなかった。そのため秀吉は家康に旧北条領240万石を与えつつも京都から離れた関東に転封。その上で家康の旧領である遠江・駿河の各所に信頼する家臣たちを配置して、家康の動きを封じる体制を築いたのだ。特に東海道の要衝である掛川城は、徳川勢の西上を食い止める重要な城だった。一豊が入城して間もなく城と城下町を作り直したのは防御体制を固めるためだったのだ。
 しかし皮肉なことにこれ以降、一豊の心は秀吉から離れ家康に引かれるようになっていく。そして文禄4年(1595)7月、事件は起こった。一豊の仕えていた豊臣秀次が謀叛の罪を着せられ自害に追い込まれてしまったのだ。秀次の家臣の多くも連座して自害、夫人・子供たちまでが処刑されるという悲惨な結末に至ってしまう。この出来事があっても秀吉が存命中はまだ落ち着いていたが、秀吉が世を去ったことで家臣団の対立が一気に表面化する。一豊が属していた武功派は家康へと接近し、石田三成が中心となる吏僚派と敵対。この対立は、関ヶ原の戦いに発展していった。そして一豊は、日本の歴史を左右した天下分け目の戦いにおいて決定的な役割を演じることになる。
 家康が会津征伐のため京都を離れた隙に乗じて三成が挙兵。しかしこの時点で家康はこの戦いに勝利できる体制を整えてはいなかった。従軍している武将たちは妻や子供を京都に人質として置いてきていたのだ。家康は小山で軍議を開き、武将たちにどちらに着くも自由と告げた。しかし、福島正則が「三成討つべし」と発言し、一気に武将たちの意思は決まった。となれば、勝つためにはどうするかが議題となる。その刹那、真っ先に立ち上がった一豊がこう言い放ったのだ。「東海道を攻め上がるには、城と兵糧が不可欠。それがしの居城・掛川城を明け渡し家康殿に進上する」。この発言がきっかけとなって、東海道筋の城を有する武将が、我先に城を明け渡したのだ。これで家康は、勝利のための基盤を固めることができたのだ。
 しかし、この逸話には裏話がある。この軍議の前に、一豊は浜松城主・堀尾忠氏(ほりおただうじ)と三成をどう攻めるかと雑談していた。その中で忠氏が「自分は浜松城を兵糧を付けて明け渡すつもりだ」と言ったのに対し「もっともなことだ」と応えていた。つまり、一豊は忠氏の発想を自分のものにしていたのだ。しかし、この功績を家康は高く評価した。関ヶ原に勝利した後、一豊は土佐20万石の城主へと大出世を果たしたのだった。