静岡武将列伝

家紋・山県昌景

山県昌景

山県昌景イラスト

武田軍最強の赤備え軍団を率い、戦国の世に武名を轟かせた猛将。

 彼は最初からこの名前ではなかった。元の名を飯富源四郎という。なぜ山県昌景を名乗るようになったのか。それはある大事件がきっかけだった。
 永禄8年(1565)正月、突如兄・飯富虎昌が捕えられる。武田信玄の嫡男・武田義信(たけだよしのぶ)と共に、謀反を企てたとの罪だった。謀反の計画をいち早く掴んで密告したのが彼だった。その功により信玄の父・信虎の代に断絶していた名跡・山県姓を与えられ山県昌景と名を改める。そして飯富虎昌が創始した赤備え軍団を継承する。戦国の世に武名を轟かせた猛将の伝説は、それまで以上に輝きを増していくことになる。
 義信の廃嫡は、信玄その人にとっても大転換を意味していた。今川義元の娘と結婚していた義信を自刃に追い込んだことは、今川氏との同盟破棄宣言と同じだったからだ。信玄は家臣たちに血の起請文を出させて結束を固めると、今川領の駿河へと侵攻を開始する。さらに甲駿同盟破棄は、三国同盟のもう一人の同盟者・北条氏との敵対も意味していた。抗争が激しさを増す中、信玄は次々と軍事行動を展開。昌景も主な戦いの大半に参戦して武功を重ねていく。
 そして元亀3年(1572)10月、ついに信玄は自身の命運を懸けた軍事行動を起こす。織田信長包囲網を画策していた将軍・足利義昭の要請に応じ、全軍を率いて甲斐を出陣したのだ。最初の標的は信長の同盟者・徳川家康だった。昌景は、遠江へと進軍する本隊と分かれ、別働隊を率いて東三河へと侵攻。家康方の城を次々と攻略し、二俣城を攻撃していた本隊に合流。二俣城を落とした。そして12月22日、武田軍は浜松城に向けて進軍を開始する。だが、浜松城を攻撃するかと思われた武田軍は、突如方向を変え進路を西へ。その動きにおびき出された家康軍は、待ち構えていた武田軍と激突する。三方が原の合戦である。多勢に無勢。「もはやここまで」と覚悟した家康は最前線に躍り出る。そこに武田軍の精鋭が襲い掛かる。命を捨てて家康を守る家臣の奮戦によって戦線離脱に成功したものの、家康は生涯忘れられない恐怖を焼き付けられることになった。そして、その恐怖の主こそが昌景だったのである。
 三方が原の戦いに勝利した武田軍だったが、上洛を実現することはできなかった。信玄が病のためにこの世を去ってしまったのだ。煮え湯を飲まされ続けてきた信長、家康は、攻勢に転じる。そして天正3年(1575)、家督を継いだ武田勝頼と信長・家康連合軍は、ついに長篠・設楽が原の戦いで激突する。この時、昌景は馬場信房らとともに撤退を進言したが受け入れられなかった。あきらかに形成不利。だが昌景は覚悟を決めて敵軍へと突撃していく。家康軍6,000を3,500の兵で馬防柵内へ追い込み、9度の攻防戦を繰り返したが奮闘もそこまで。体中に銃弾を浴びて討死してしまう。この戦いで惨敗を喫した武田軍は、これ以降急速に力を失っていく。昌景は、歴史が大転換する最前線で、常に戦っていた武将だった。