静岡武将列伝

家紋・豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉イラスト

日本を手の内にまわし候

天正12年(1584)、毛利氏に仕えた外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、ある書状で秀吉を評しこの言葉を記した。「小者あがり、乞食あがりと蔑んではならない。日本を単位に事を進める大人である」。本能寺の変の10年前には織田信長の死を予言した恵瓊は、天下統一の最右翼は秀吉だと考えていた。そして恵瓊の言葉通りに運命は進んでいく。
 秀吉は貧しい身分の出身だった。様々な職業を転々とする少年時代を過ごした後、天文20年(1551)遠江・頭陀寺城主の松下之綱(まつしたゆきつな)に仕える。順調に取りたてられていく秀吉だったが、それを妬む周囲から酷い嫌がらせを受けてしまう。それを見かねた之綱は、旅費を与えて尾張中村へと帰すことにした。これが秀吉と織田信長を結びつけることになる。信長に仕えた秀吉は、忠勤ぶりを発揮。またたく間に出世していく。信長の美濃攻略の時には、斎藤龍興方の土豪懐柔で大きな功績を上げ、織田家中で注目されるようになる。さらに浅井・朝倉攻めの功績で小谷城を与えられ大名に。そして浅井長政が滅ぼされた後は、北近江三郡を領す長浜城主となった。この頃から、丹羽長秀(にわながひで)と柴田勝家(しばたかついえ)から一字ずつをもらい受け、羽柴藤吉郎(はしばとうきちろう)と名乗り始める。以来数々の戦功を重ね、織田家臣団の中核に名を連ねるまでになっていった。そして、運命は訪れる。天正10年(582)6月2日未明、明智光秀(あけちみつひで)による本能寺の変で主君・信長が滅ぼされてしまったのだ。中国攻めの陣中で報せを受けた秀吉は、急ぎ毛利家との和睦を成し遂げ東上を開始。6日間で約180キロを駆け抜ける「中国大返し」の離れ業を演じ、「山崎の戦い」で光秀を討つ。これで天下人を継承できる位置に着いた秀吉は、対立した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで撃破。小牧・長久手の戦いにより織田家の領国を手中にするが、徳川家康に勝つことはできなかった。天正13年(1585)関白に任ぜられ、天皇に代わって天下号令とし「惣無事令」を発布。戦国大名同士の戦闘を禁じた上、敵対勢力を討伐。天下統一を成し遂げた。しかし天下人としての人生は、朝鮮出兵、後継者問題など苦難の連続だった。そして関白就任からわずか15年後、辞世の句を残して人生を終える。「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」。