静岡武将列伝

家紋・徳川家康

徳川家康

徳川家康イラスト

徳川十六神将

徳川十六神将(久能山東照宮博物館 )


徳川十六神将(久能山東照宮博物館 )

厭離穢土欣求浄土

「穢(けが)れたこの世を厭(いと)い離れ、浄土を欣(ねが)い求める」。家康がこの言葉に出会ったのは永禄3年(1560)、桶狭間の戦い直後だった。今川義元が討たれた後岡崎の大樹寺に入った家康は、将来を悲観し先祖の墓前で切腹しようとした。その家康を諭した住職・13代登誉上人が教えたのがこの言葉だった。「あなたが大名として名を成そうとするならば、最終的には万民のために天下の父母となって、万民の苦しみを無くするというような事をしていかなければいけない」。以来、家康はこの言葉を旗印とし、生涯掲げ続けることになる。そして、この時を境に家康の人生は一変する。
 今川家の人質という立場から戦国武将として独立することを決意した家康は、今川領となっていた先祖伝来の領土を次々と奪還。さらに織田信長と清洲同盟を結び、今川領・遠江への侵攻を開始する。同じく今川領を狙っていた武田信玄と結び、一気に今川氏を滅亡に追い込んで旧今川領を信玄と分割。大井川以西を領土とすると、元亀元年(1570)浜松城を築城し拠点を移した。これ以降約十六年間は、家康にとって戦国大名としてのし上がる戦いの日々となる。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠・設楽原の戦い、天正・壬午の乱と武勲を重ねるごとに、その名は天下に轟いていった。そして、小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉の征夷大将軍の芽を摘むと、秀吉に次ぐ権力者となった。
 秀吉の没後の慶長5年(1600)、全国を二分する戦いとなった関ヶ原の戦いに勝利。慶長8年(1603)には征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開き天下人へと上り詰めた。2年後、将軍職を三男の秀忠に譲り、慶長12年(1607)に駿府城に隠居。以来、没するまで「大御所政治」と呼ばれる時代が続く。豊臣家との権力の二元体制のような関係は次第に悪化、慶長19年(1614)大坂の陣に発展する。家康は73歳という高齢にもかかわらず、総大将として出陣。翌年の夏の陣で豊臣家を完全に滅ぼし、政権基盤を盤石化。江戸幕府は、世界的にも類を見ない約270年の泰平を現実のものとした。家康にとってそれは「厭離穢土欣求浄土」を掲げて追い求めた理想世界だったのかもしれない。