静岡武将列伝

家紋・武田信玄

武田信玄

武田信玄イラスト

都より甲斐の国へは程遠し おいそぎあれや日は武田殿

 山崎宗鑑遍の「犬筑波集」という俳諧連歌選集に収められている一句だ。「京都から甲斐の国は随分と遠い。おいそぎなさい信玄殿。もう日が暮れてしまいますよ」。信長に代わる新しい支配者として、信玄を迎えたいという京都町衆の気持ちを表しているといわれる。それほど信玄の人望は厚かったのだ。それはなぜなのか。
 信玄は、父・信虎を追放し、息子・義信を自刃に追い込んでいる。苛烈な生き方を貫いた武将という印象がある。しかし、その行動の背景には、一貫して「豊かな国を作ろう」という領主としての姿勢が見えてくる。「甲陽軍鑑」に、信玄のこんな言葉がある。「大将の諸人を扶持し、弓矢を取って勝利を得、他国を攻め取り、能く収め、名をあぐる其のもとは、民の耕作よくする故なり」。強い軍事力を維持できるのは農民たちの暮らしの向上があればこそであり、それを実現するために大将は戦に勝利し領土を獲得する。戦国大名として容赦なく敵を駆逐するため采配を振るう一方、「信玄堤」に代表される治水事業を進め、鉱山開発も積極的に推し進める卓越した領国経営を展開もする。さらに、分国法「甲州法度之次第」を制定したことも大きな意味がある。しかも、一度定めたことでも不都合が生じれば手直しを加える柔軟さを持っていた。それどころか、甲州法度之次第の中には自分の行いに対して、「民心にそわぬことがあったら、貴賎を問わず目安をもって申し出よ。考慮を加えるであろう」と自ら身をもって法度を守り、意見さえも聞き届けようとしている。印象と違って、柔軟な発想の持ち主でもあったのだ。そして、信玄は、「甲陽軍艦」にこんな考えた方を披露している。
「国を多く取ることは、果報次第なり」。天下を取るほどの人間には果報というものがあり、それと時が合致した場合に成功する。時がうまく合わなければ、天下人には成れないと言うのだ。信玄は、自分が生きている時代と、天下取りの時は合っていないと思っていたのだろうか。信玄のその言葉の通り、抜群の実力を誇り、戦略もすべて整いながら、志半ばで生涯を閉じる。
 そして信玄の死を最も惜しんだのは、死の直前、最も敵対し直接対決の末に惨敗した徳川家康だった。家康は、信玄の生き方の中にに戦国大名としての理想を見ていたのかもしれない。