静岡武将列伝

家紋・武田勝頼

武田勝頼

武田勝頼イラスト

信長も認めた実力者ながら、武田家を滅亡に導いてしまった悲劇の武将。

 勝頼の母は、諏訪頼重の娘である。頼重は信玄に攻められて自害した武将だ。いわば、父の仇の側室となったのだ。勝頼は諏訪御料人と呼ばれた母と信玄との間に四男として生まれた。本来ならば、家督を相続する立場ではなかったはずだ。しかし、戦国の世が、無かったはずの運命を導いていく。
 永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで、周辺国の勢力図は大きく変わり始めた。信玄にとって統治能力を失った駿河は、同盟国から戦略目標に変わる。しかし簡単に決断はできない。義元の娘を嫡男・義信の正室に迎えていたからだ。しかし永禄8年(1565)、信玄は義信を謀反の嫌疑によって廃嫡する。ここで勝頼の運命は変わる。信玄の男子のうち二男は盲目、三男は早世していたため継嗣となったのだ。信玄は、家臣に血の起請文を書かせて結束を固め、駿河へと侵攻。それ以来、信玄が戦国最強と謳われる武名を轟かせる中、勝頼もその実力を高く評価される武将となっていく。
 ところが元亀4年(1573)、三方が原の戦いの直後、打倒・信長を掲げての上洛の途上信玄が病に倒れる。だが家督を相続するはずの勝頼には、武田累代の旗、八幡大菩薩の旗のどちらも持つことが許されなかった。勝頼は、自らの嫡男・信勝が16歳になるまでの陣代とされたのだ。支配体系が盤石とは言えない中、いち早く信玄の死を読んだ徳川家康が動く。駿河の武田領内にたびたび攻め込んでくるようになったのだ。天正2年(1574)、勝頼も逆襲に転じる。遠江の要衝・高天神城を包囲する。城主・小笠原長忠(おがさわらながただ)は浜松城の家康に援軍を要請。さらに家康は岐阜城の織田信長に援軍を要請する。しかし信長は間に合わなかった。その前に勝頼は高天神城を落城させていたのだ。
 東遠江をほぼ平定した勝頼は、さらに積極的に軍事行動に出る。だがそれが裏目に出てしまう。長篠・設楽が原の戦いで惨敗。重臣の多くを失ってしまう。家康は武田氏の弱体化を見逃さず、すかさず高天神城を奪還。さらに信長、家康らの調落を受け、家臣たちが次々に離反してしまう。中でも武田一族の扱いを受けていた信濃の木曾義昌が信長に通じたことは衝撃的だった。勝頼はすぐさま出陣するが、義昌も信長に支援を要請。信長はこの機に乗じて、一気に決着をつけるため甲州攻めを決断した。伊那口からは織田信忠、駿河口からは徳川家康、関東口からは北条氏政、飛騨口からは金森長近(かなもりながちか)らが一斉になだれ込んだ。この事態に勝頼も対抗しようとするが、家臣の離反は止まらない。最後には、数十人ほどの家臣と妻、嫡男・信勝らと敗走する途中、天目山で追っ手に囲まれ自刃して果てる。信長でさえ「油断ならぬ」と認めた実力を持ちながら、常に悲劇の影が付きまとった悲劇の武将だった。