静岡武将列伝

家紋・太源崇孚雪斎

太源崇孚雪斎

太源崇孚雪斎イラスト

武名を轟かせた義元の右腕。家康の運命にも影響を与えた稀代の軍師。

 今川氏親は、今川氏が再び家督争いで二分されないよう手を打っていた。六人いる男子のうち、政権に残したのは長男・次男のみ。六男は養子先の尾張今川氏の家督を継ぐ身となり、残る三人は出家させた。そして大永2年(1522)、五男を修行に出した時、その教育係を託されたのが修行僧・九英承菊(きゅうえいしょうぎく)、後の雪斎だった。すべては今川家の安寧を願った方策だったが、この出会いこそが戦国の世すらも大きく変えていくことになる。
 天文5年(1536)3月17日、家督を継いでいた氏輝(うじてる)と次男・彦五郎が共に突然この世を去ってしまう。氏輝に跡継ぎがいなかったため、氏親の正室の子である五男に相続させることとなる。しかし、三男・玄広恵探(げんこうえたん)がこれに反発。家督争いは、家中を二分しての武力衝突に発展してしまった。花蔵の乱である。この時、雪斎は自らの教え子のために軍師として奔走。壮絶な戦いの末無事相続を実現、今川氏第九代当主が誕生する。今川義元である。義元は兄・氏輝の菩提寺として駿府・臨済寺を建立。雪斎をその住持として招く。雪斎が僧籍のまま義元を補佐する体制が整ったのだ。以来、雪斎は軍師としての卓越した才をもって、義元と共に大きく世の中を動かしていく。
 義元の家督相続直後の天文6年(1537)には、同盟政策のこじれから北条氏との間に河東一乱が勃発。富士川以東の領地を一度は奪われるも最終的に奪還。さらに西三河で織田信秀との戦いに総大将として参戦。天文16年(1547)に田原城を攻略。天文17年(1548)の小豆坂の戦いも制し、着々と織田領へと迫っていった。この頃、織田氏に追い詰められていた岡崎城城主・松平広忠からの支援要請を、嫡男・竹千代を人質として差し出すことを条件に受諾する。しかし、これを知った織田信秀の謀略により、竹千代を奪われてしまう。すると雪斎は天文18年(1549)に安祥城を攻め信秀の息子・信広を捕え、竹千代との人質交換を実現させたのだ。この竹千代こそ、後の徳川家康である。
 義元が「今川仮名目録追加」を制定した翌年の天文23年(1554)には、雪斎の尽力により武田信玄・北条氏康との間に甲相駿三国同盟が実現。いよいよ織田氏との直接対決への布石が整った。しかし、その時を待たず弘治元年(1555)、駿河長慶寺で生涯を閉じた。義元と信長が桶狭間で激突するのは、それからわずか5年後のことだった。