静岡武将列伝

家紋・榊原康政

榊原康政

榊原康政イラスト

徳川十六神将

徳川十六神将(浜松市美術館)


徳川十六図(浜松市美術館)

数々の戦いで先鋒を務め、勇名を馳せた智勇兼備の忠臣

 桶狭間の戦いの直後、家康が大高城から岡崎へと撤退する際に一時入った大樹寺で初めて謁見。そこで小姓として取り立てられた。初陣は、三河一向一揆平定の戦い。その武功により、諱の一字を与えられ「康政」を名乗る。
 永禄9年(1566年)19歳で元服するや、旗本先手役に抜擢。以来、特に先鋒を務めることとなった本多忠勝とは、親友の間柄となる。
 特に康政の名を世に知らしめたのは、姉川の戦いだ。織田・徳川連合が浅井長政・朝倉義景連合と激突したこの戦いにおいて、徳川軍は5,000の手勢で10,000を数える朝倉軍に対峙した。一進一退を繰り返す攻防の中、康政は朝倉軍の横に回り、右翼深くを突いた。これにより朝倉軍は崩れ、信長本陣まで肉迫していた浅井軍も敗走へと追い込まれることになったのだ。
 さらに智力の鋭さも備えていた。小牧・長久手の戦いでは、戦場を俯瞰できる小牧山への布陣を進言。5倍の兵力を擁する秀吉軍との兵力差を解決しただけでなく、秀吉軍が三河侵入した情報をいち早く得て大打撃を与えた。また、秀吉の織田家乗っ取りを非難する檄文を書いて相手方陣中にばらまき、敵将兵を動揺させている。家康の書状も代筆したという能筆家としての力も駆使したのだ。秀吉は激怒し、10万石の賞金を懸けた。しかし、戦後態度を一変させてその忠節を褒め称え、従五位下式部大輔に任官させた。
 関ヶ原の戦いにおいては、主力の徳川秀忠軍に軍監として従軍。中山道を辿り美濃を目指すが遅参の憂き目に会う。しかし戦後、秀忠を責める家康に、「我が子をだし抜いて落ち度とは何事」と言上して秀忠をかばったという。かつて家康の長男・信康の教育も任されていた頃、目に余る乱暴狼藉を諌めた時、矢をつがえて服従を命じた信康に対して「御為の進言が気に入らねば随意に処分を」と平然と構えたという逸話もある。まさに、主君のためならば勇気を持って諫言できる、真の意味での忠臣だった。