静岡武将列伝

家紋・酒井忠次

酒井忠次

酒井忠次イラスト

徳川十六神将

徳川十六神将(久能山東照宮博物館 )


徳川十六神将(久能山東照宮博物館 )

家康最大の悲劇の責任を背負ってしまった武功の忠臣。

 家康が今川義元の人質となった頃から仕える忠臣。駿府に従った家臣の中では最高齢だったという。桶狭間の戦いを経て松平家が独立した後に家老となり、軍事と政治の両面で家康を補佐した。三河一向一揆では酒井氏の多くが一向一揆に参加する中、あくまでも忠次は家康に従った忠義の人でもある。永禄7年(1564年)吉田城攻めの戦功により吉田城主となり、「東三河の旗頭」という重職を任されている。
忠次の名を世に知らしめたのは、長篠・設楽原の戦いだ。信長・家康が軍議を開いた時、忠次は長篠城背後の鳶ヶ巣山への奇襲を進言した。その時は信長に言下に一蹴されたが、軍議後に呼び出しがかかり「さき程の作戦見事である。明朝、軍を率いて実行せよ」と命じられる。忠次は鉄砲隊500を含む2500の兵を率いて鳶ケ巣山へ攻め登り、激戦の末に武田勢を粉砕するのだ。この時、信長から「目が10もついているようだ」と賞賛された。
しかし天正7年(1579)、家康の嫡男・信康に嫁いでいた信長の娘・徳姫が、家康の正室・築山殿と信康が武田勝頼と内通していると告発する事件が起こる。忠次は信長への弁明を任されるがかばいきれず、二人を殺すことを命じられてしまう。結局、築山殿は浜松城に向かう小籔村で斬殺、信康は切腹という悲惨な結果を迎える。このことは家康、生涯消えない汚点となった。
その後も、天正・壬午の乱、小牧・長久手の戦いなど、家康の主な合戦にすべて参加している。家康の行くところ必ず酒井家の旗である白地に朱丸の旗指物が翻るといわれたが、築山御前の事件以降、家康とは以前のような関係でいられなくなった。後日、天正18年(1590)小田原攻め後の論功行賞で、嫡男・家次に下総国臼井3万石しか与えられないことを抗議した時、家康から「お前でも子はかわいいか」と言われたという。悲劇の責任を背負ってしまったが、忠次は今も徳川四天王筆頭と讃えられるほどの忠臣だったことは間違いない。