静岡武将列伝

家紋・織田信長

織田信長

織田信長イラスト

死のふは一定 しのび草には何をしよぞ 一定かたりをこすよの

信長は、この小歌を好んで謡っていたという。「死は必ず誰にも訪れるもの。生前をしのぶたよりとして、生のある間に何をしておこうか。人はそれをよすがとして、きっと思い出を語ってくれるであろうよ」。はかない人生の中に、永遠に消えない何かを刻みたい。信長は、常にそう考えていたのかもしれない。
 そう感じさせる出来事は、18歳で家督を継いだ直後から起こっている。信長への反発が家督争いへと発展し、兄弟が次々に反旗を翻す。しかし信長は、ことごとく謀叛を制したばかりか、尾張統一まで実現してしまうのだ。さらに、桶狭間の戦いでは「海道一の弓取り」と讃えられた今川義元を撃破。全国に名を轟かす武将となる。さらに徳川家康と同盟を結んで三河方面の脅威を消し、本格的に美濃攻略に着手。永禄10年(1567)に美濃一国を手中に収める。本拠地を尾張小牧山から岐阜に移したこの頃から、天下布武という朱印を用いはじめた。誰も考えていなかった天下統一の旗を公然と掲げたのだ。翌、永禄11年(1568)には、足利義昭を奉じて上洛。後見人となり天下統一への一歩を踏み出す。しかし、将軍とは名ばかりの義昭は不満を募らせ、密かに武田信玄・朝倉義景ら大名や、本願寺・比叡山などに書状を送り信長包囲網を築き上げる。ここから信長の苦闘の日々が始まった。姉川の合戦、本願寺との石山合戦、そして三方ヶ原の合戦。次々に立ちふさがる強敵との戦いながら、信長は活路を見出し続ける。元亀4年(1573)7月には、足利義昭自身が挙兵したが失敗。信長包囲網は上杉謙信の死により崩れ、天正8年(1580)には本願寺との和睦が成立。天正10年には、武田氏討伐に乗り出し武田勝頼を討った。最後の宿敵を葬り天下統一に王手を賭けた信長は、1週間かけて駿河・遠江を横断し清洲に凱旋する。この旅に同行したのは家康だった。それは、裏切りが当たり前の戦国の世で20年にわたり同盟を守り続けた二人だけが分かち合える特別な時間だったろう。本能寺の変が起こるのは、このわずか一ヶ月後。「是非に及ばず」と言い残し、信長は紅蓮の炎に消える。信長は口ずさんでいた小歌の通り、歴史に忘れられない足跡を刻んでその生涯を閉じた。