静岡武将列伝

家紋・今川義元

今川義元

今川義元イラスト

自分の力量を以て国の法度を申し付く

 自ら制定した分国法「仮名目録追加」第20条に記された、あまりに有名な言葉である。義元の戦国大名としての自信を象徴する言葉として引用される。確かに、今川氏は代々駿河守護を務める家系であり、さらには「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われる将軍家につながる名門である。その当主が、旧い秩序から脱することを高らかに謳ったことを考えれば、当時の人々にとっていかに衝撃的であったかは想像に難くない。しかし、この条文にはもう一つ大きな意味が込められている。それは、領主を領主とも思わない一揆体制の解体を宣言していることだ。新たに領有した三河の「守護使不入」の特権を盾にした一揆体制を切り崩し、経営の安定化を図るための政策だったのである。
 桶狭間の戦いでの敗北の印象が強いため誤解されがちだが、義元は天才的な領国経営の手腕を誇る戦国大名だった。しかも、「東海一の弓取り」と讃えられるほど、武名も全国に鳴り響いていた。事実、幼少時からの教育係だった太原崇孚雪斎(たいげんそうふせっさい)を軍師として三河を奪取し尾張まで侵攻。織田信長の父・信秀との戦いは常に先手を取り、尾張への領土拡大策を着々と推進していた。織田との三河争奪戦の最中、松平竹千代(のちの徳川家康)までも人質として取り合うが、一度信秀に奪われたにも関わらず策略によって取り返す。結局最期まで、信秀は義元に勝てなかった。
 徳川家康は、そんな義元の側で青年へと育つ。太原崇孚雪斎の薫陶を受けただけでなく、義元の手腕をつぶさに見ていただろう。しかし、そんな偉大な君主が、桶狭間の戦いで若き織田信長に敗れ去る。若干19歳だった家康には、それまでの価値感がすべて崩れ去るほどに衝撃的な出来事だったのではないだろうか。桶狭間の戦いの翌日、家康は戦国大名として自ら立つことを決意する。「厭離穢土欣求浄土」の旗印を掲げて。義元との出会いがあったからこそ、家康の天下への道は始まった。そう思うのは、贔屓目に過ぎるだろうか。