静岡武将列伝

家紋・今川氏親

今川氏親

今川氏親イラスト

戦国時代の幕開けと共に領土を拡大。戦国武将の先駆けとなった名将。

 駿河は、室町幕府にとって最前線ともいえる重要拠点だった。関東十国を収める鎌倉公方が配下とする伊豆・甲斐と国境を接する要地だったからだ。今川家は、足利将軍家に連なる家柄で、代々駿河守護を拝命する名家だった。それゆえ、家督争いが起こることは宿命だったのだ。不幸なことに氏親も例外ではなかった。時は応仁の乱の只中。父・義忠は東軍・細川勝元に付き、西軍の遠江守護・斯波氏と対抗するため駿河に戻り戦いを繰り広げていた。戦況は有利に進んでいたが、義忠は敵方残党に遠江・塩買坂で討たれてしまう。その時、氏親わずか6歳。幼いことを理由に、義忠の従兄弟である小鹿範満(おしかのりみつ)が跡目に名乗りを上げた。しかし氏親には強い味方がいた。伯父・北条早雲だ。周辺国がこの争いに介入する動きを起こしたため、急きょ早雲のとりなしによって氏親元服まで小鹿範満が家督を代行することで事なきを得る。
 しかし10年後、再び家督争いが表明化した。範満がいっこうに家督を戻そうとしないのだ。これを知った早雲は、申次衆(もうしつぎしゅう)という幕府の要職を辞して駿河に下り、敵方を襲撃。長享元年(1487)、無事氏親は7代目を継承する。若干17歳の当主の誕生だった。氏親は早雲に興国寺城を与え、引き続き補佐を受ける関係となる。これが氏親の人生を大きく変えた。なぜなら、直前まで幕府中枢にいた早雲は、時代の激変が目前に迫っていることを予測できる人物だったからだ。そして明応2年(1493)、早雲は堀越公方が住む堀越御所を急襲。伊豆を勢力下に収めることに成功する。ここに戦国時代の幕は切って落とされた。ここから氏親の動きは早かった。迷うことなく早雲を将として、他国への侵攻を開始したのだ。
 明応3年(1494)には遠江三郡へ侵攻。文亀元年(1501)には遠江守護の斯波氏と信濃守護の小笠原氏の連合軍を撃破。さらに永正元年(1504)には武蔵立河原へ出陣し、永正3年(1506)から5年にかけて三河の諸城を攻撃した。実戦で力を付けた氏親は自らの力で斯波氏と戦い、永正14年(1517)に遠江を平定。駿河・遠江を治める有力な戦国大名としてその名を知られることになる。
 しかし、大名として力を付けるほど、家督争いの宿命は重くのしかかることになった。氏親は領国経営の強化も視野に入れて、大永6年(1526)に分国法「今川仮名目録」を制定した。幕府と深く関わる家柄でありながら、自ら独立を宣言したのだ。そしてこの政治力は、後に続く戦国大名たちに大きな影響を与えることになっていった。戦国時代の幕開けと共にその先端を走り、名実ともに戦国大名の先駆けとなった武将。それが氏親だったのだ。