静岡武将列伝

家紋・北条氏康

北条氏康

北条氏康イラスト

信玄、謙信と覇を競い、後北条氏の黄金時代を築いた相模の獅子。

 後北条氏初代の祖父・早雲が戦国時代の幕を切って落とした後、2代目の父・氏綱は関東に残っていた室町幕府旧体制と対峙することになった。古河公方、関東管領らが支配する関東で覇を唱えようとするならば、旧体制を打破しなければ未来を開くことはできない。だからこそ氏綱は、武蔵進出を決断した頃から北条を名乗り始めた。新たな領主としての正統性を掲げながら、山内・扇谷両上杉氏と関東の覇権をめぐって激しい戦いを繰り広げていたのだ。大きく歴史を動かす渦の中心に、氏康は三代目を担う嫡男として生まれた。
 天文6年(1537)、打倒氏綱に執念を燃やしていた扇谷上杉朝興(おうぎがやつうえすぎともおき)が没し、氏綱は悲願だった河越城奪取に成功する。しかし、13年余の歳月をかけ目標を達成したその年、国境を接している甲斐・駿河の状況が一変する。同盟関係だった駿河・今川義元が、敵対している甲斐の武田氏と結んだのだ。怒った氏綱は、富士川以東の今川領内に侵攻。およそ7年にも及ぶ河東一乱に突入してしまう。北条は、周辺すべてを敵に囲まれた孤立無援の状況に陥ってしまったのだ。そして、この最悪の状況にあった天文10年(1541)、父・氏綱は生涯を閉じる。それを知った関東管領・山内上杉憲政(やまのうちうえすぎのりまさ)は扇谷上杉朝定(おうぎがやつうえすぎともさだ)と共に、河越城奪還を目指し始める。天文14年(1545)には、憲政は今川義元、武田晴信(信玄)と連携し、駿河・武蔵で同時に軍事行動を起こす。義元は、河東奪還のために出陣。憲政も朝定とともに河越城を包囲する。さらに憲政は、古河公方・足利晴氏まで味方に引き入れ、盤石の体制を整えた。氏康の命運も尽きたかと思われた。しかし、ここから氏康の大逆転が始まるのだ。
 まず氏康は、義元と駿河の富士川以東の地を放棄することを条件に和睦。敵を河越城に絞り込んだ後、攻撃に転じていく。北条軍約8,000に対し古河公方・両上杉連合軍80,000。氏康は、10倍の敵に臆することなく策略を巡らせ、伝説的な夜襲攻撃で完璧なまでの勝利を収めるのだ。河越の夜襲である。この勝利を境に、関東の状況は一変する。旧支配体制から、群雄割拠の時代へと突入するのである。その主役となるのは、武田信玄、上杉謙信、そして氏康だった。以来、氏康は、信玄・謙信という戦国最強を謳われた名将たちと互角に渡り合っていく。そして数々の戦いを次々と制し、関東における支配を確立。同時に、民政においても画期的な政策を矢継ぎ早に実施し、領民からの厚い信頼を集めていく。まさに後北条氏の黄金時代を築き上げた名将。それが氏康だったのだ。