静岡武将列伝

家紋・北条早雲

北条早雲

北条早雲イラスト

上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず

 戦国乱世の遠因となった応仁の乱が京都を混乱に叩き込んでいた時、北条早雲はその渦中にいた。将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の弟・義視(よしみ)に仕えていたのだ。戦乱の最中、京都にいられなくなった義視と共に伊勢へと下向。しかし、義視が京都に戻った応仁2年(1468)、早雲は伊勢に残り牢人となる。その後文明8年(1476)、妹が嫁いでいた今川氏の家督争いの調停を成功させると、京都に戻り幕府の申次衆として抜擢される。しかし、早雲は、そのまま京に止まってはいなかった。
 甥にあたる竜王丸が成人するまでの家督代行の約束だった小鹿範満が、いつまでたっても家督を戻さない。再び早雲は、密かに駿河に下る。長享元年(1487)、同志を集め、駿府今川館に小鹿範満を急襲。家督を竜王丸に取り戻したのである。この恩賞として興国寺城を与えられ、早雲は城主となる。それ以来、早雲は伊豆への侵攻を目論見、堀越公方を討ち、伊豆を平定する。そこから、後北条氏五代100年の歴史が始まっていくのだ。
 最初に掲げた言葉、「上下万民に対して、一言半句も虚言を申すべからず」。早雲が遺した家訓「早雲寺殿廿一箇条」に記されたものだ。早雲は、戦となれば苛烈で容赦ないことから、梟雄(きょうゆう)と呼ばれることもある。「残忍で、強い人」を指す言葉だが、その印象とは大きく異なる言葉である。しかし、北条氏の領国経営が民衆が支持されていたことは事実だ。どちらが本当の姿なのか。それを推察する手懸りが、早雲が過ごしていた京都の姿にある。当時、京都は、大飢饉に見舞われ、わずか二カ月で八万二千人もの餓死者が出て、死体の山が鴨川の流れを堰き止めてしまうほどだった。ある時大雨が降って、河原に打ち捨てられていた死体が下流へと押し流された。その時、相国寺(しょうこくじ)蔭凉軒(いんりょうけん)の僧・季瓊真蘂(きけいしんずい)は日記にこう記している。「洛中の死体の悪臭が消え去った。爽快なことよ」(「蔭凉軒日録」寛正二年6月4日条)
 将軍・足利義政をはじめ権力者は、決して民衆の救済に尽力することはなかった。京都の中枢にいてすべてを知っていたからこそ、早雲は一国の主になろうとしたのではないか。早雲以降、後北条氏は中央の権威に頼ることなく独自の領国経営を推進していく。まるで、理想の独立国を築こうとするかのように。早雲の思いはきっと、家督とともに確かに受け継がれていったのだ。