静岡武将列伝

家紋・本多忠勝

本多忠勝

本多忠勝イラスト

徳川十六神将

徳川十六神将(久能山東照宮博物館 )


徳川十六神将(久能山東照宮博物館 )

信玄、信長、秀吉そろってその武勇を讃えた伝説の豪傑。

「家康に過ぎたるものが二つあり唐のかしらに本多平八」。
これは三方ヶ原の戦いの前哨戦となった一言坂の戦いの後、勝利した武田軍の武将が木札に記した落首。撤退する徳川軍の最後尾で奮戦した忠勝を讃えたものだ。ちなみに、「唐のかしら」とは、当時希少だったヤクの尾毛をつけた兜のことだ。
忠勝には、こうした敵方さえも感嘆せしめたという逸話は枚挙にいとまがない。織田信長も武田征伐の帰途、わざわざ浜松に立ち寄り忠勝を召しだした上で、自らの家臣の前で「花実兼備の勇士」と讃えた。さらに豊臣秀吉も「日本第一、古今独歩の勇士」と賞賛している。実際、どちらも忠勝を自分の家臣に加えようとしている。信長は家康に「余人に代え難い」と断られ、秀吉は直接本人に打診して断られている。
とにかく忠勝はどんな大軍勢を前にしても臆する事がなく、活路を切り開いている。姉川の戦いでは、朝倉軍1万に向かって単騎で飛び込み、家康軍の勝利を呼び込んでいる。また長久手の戦いの時は、秀吉本隊4万の大軍勢をわずか500騎で牽制した。名馬「鬼鹿毛(おにかげ)」に跨り、刃にとまっただけのトンボが真っ二つになったという名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」と共に堂々と進む姿は、敵将・秀吉さえも「殺すには惜しい」と思わせる迫力があった。 本能寺の変の時も、信長の死を知った家康が「信長に殉じよう」と言いだした時、「仇を討つなら、三河に帰るべき」と諫めたのが忠勝一人だった。どんな場面でも冷静なこの胆力があればこそ、57回の合戦でかすり傷一つ負わない実績を生み出せたのだろう。
しかも武功だけの武将ではない。小田原攻めの時には、玉縄城の北条氏勝を調略し、関ヶ原の戦いでは何通もの書状を出し西軍の切り崩しを図り、西軍総大将・毛利輝元との不戦工作も成功させている。桶狭間で初陣を飾ってから関ヶ原まで、家康を支え切った伝説の豪傑である。