静岡武将列伝

家紋・馬場信房

馬場信房

馬場信房イラスト

40余年の戦歴で無傷の伝説を持つ武士。信玄にさえ諌言できた名将。

 長篠・設楽が原の戦いの際、織田方からさえ「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と讃えられたのが馬場信房だ。武田氏三代に仕え、主要な戦いのほとんどに侍大将として120騎を率いて参戦。40余年にわたって最前線で戦いながら、かすり傷一つ負わなかったという伝説の武将である。
 信房は、もともとは甲斐郷士の教来石(きょうらいし)氏の出身である。信玄が当主となった後に重ねた数多くの武功によって、信虎時代に断絶していた武田譜代の名門・馬場氏の名跡を継ぐことを許された。ただ、合戦に優れていただけではない。あの信玄にさえ、真正面から諌言を許されるほど信望を集めていた人物だったのだ。
 信玄が駿河に侵攻した時のことだ。駿府今川館を攻撃する際に、大将だった信房に「今川館には火をかけるな」と命令した。今川館には茶道具・刀剣をはじめ、数多くの宝物が集められていることを、信玄は知っていたのだ。ところが信房は、信玄の命令を無視。館に火をかけて焼いてしまった。命令に背いたことを責められた信房は、臆することなくこう言ってのける。
「今川館を焼かず今川の財宝を手に入れれば、必ずや世間は信玄は今川の財宝が欲しくて今川を攻めたといわれるでしょう」と。
 生涯合戦での負傷なし、自分一手だけで優れた戦功をあげた合戦が21回もあったと伝えられる強さ。さらに、君主にまで諌言する人物としての深さ。そんな信房を歴史に刻んだのが、長篠・設楽が原の戦いだった。
 信房は山県昌景らとともに形成不利のため撤退をすすめたが、信玄の跡を継いだ武田勝頼は合戦を支持。予想通り、武田軍は総崩れの様相を呈することになってしまった。信房率いる部隊もほとんどが負傷、討死して、残るはわずか80騎ほどになる。しかし、信房自身はこの時もかすり傷一つ負っていなかった。この時、若い武者が撤退を進めると、にこりと笑って「命令するなら、退くよりほかあるまい」と応え退却を支持する。だが、信房自身は御旗本本隊が退くまでは前線に止まり、勝頼の「大」の字の御小旗が撤退を始めたことを確認してから自らも退却を始めたのだ。しかし信房は、部隊を退却させるとただ一人敵方からも見える高台に引き返し、「我こそは馬場美濃という者なり。打ち取って手柄にせよ」と名乗ったのだ。敵兵4~5人が鑓を取って突きかかってくるが、刀に手を懸けもせずその場で討死を遂げた。享年61歳。まさに、他に比類なき名将だった。