山中城

やまなかじょう

山中城見どころ指南

山城気分を高める石畳の旧道から、広大な岱崎出丸へ

山城気分を高める石畳の旧道から、広大な岱崎出丸へ ▲芝生と眺望が気持ちいい、広大な岱崎出丸(右の土塁下には一ノ堀)

駐車場から北条橋を渡ると箱根旧街道の石畳。両脇の杉林からのわずかな木漏れ日が、旧街道の雰囲気を醸し出しています。この薄暗い石畳から案内に沿って斜面を登ると・・・・・そこには広大な緑地、岱崎(だいさき)出丸が広がります。
山中城の南西に造られたこの出丸は、標高547~557m、面積20,400㎡におよぶ広大な曲輪(くるわ)です。天正17年(1588)、豊臣秀吉の小田原征伐に備え急ぎ増築されたのですが間に合わず、一部未完成部分を残しています。
これが城の一部かと思うほどのスケール感! さらに出丸西側には全長約150mもの一ノ堀の畝堀(うねぼり)が、出丸と街道をさえぎるように続きます。その規模からも、いかに北条側が豊臣勢に脅威を感じていたかを見てとることができます。
すり鉢曲輪、御馬場曲輪を有した岱崎出丸からは、同じく北条の城である韮山城(伊豆)と駿東の大半を見渡すことができたといいます。歴史上有名な戦いとなった天正18年(1590)3月、6万とも7万ともいわれる圧倒的な兵力を有する豊臣軍に対し、城主松田康長の北条軍はわずか4,000人。この岱崎出丸では山中城の副将、間宮康俊がわずか100余名で守り壮絶死したとか。最西端に位置するこの出丸から眼下に迫り来る強大な敵軍を目にした時、どのような思いが駆け巡ったことでしょう。
現在でもその眺望は変わらず、北には富士山、春にはツツジが咲きそろう人気のスポットです。

敵の攻撃と戦意をくじく、大規模な畝堀

敵の攻撃と戦意をくじく、大規模な畝堀 ▲尾根を利用した、急峻な西櫓の畝堀

戦闘を前提に築いた山中城は、V字状渓谷を発達させた二つの河川(山田川・来光川の源流)に挟まれているため城の南北は急峻で、東西の尾根は多くの堀で分断し防御されています。特に西からの脅威(=豊臣勢)に備えた岱崎出丸の一ノ堀や西の丸・西櫓の畝堀(うねぼり)は、規模が大きく見応え充分! 
西櫓の畝堀は空堀の中に高さ約1.8mの“畝(うね)”を掘り残し、空堀全体を10区画に区切っています。
・堀底=およそ2m×5m
・堀の深さ=約9m
・傾斜=約55度(長野オリンピックのスキージャンプ台最大傾斜度は37.5度)
しかもこの地域はロームという、粘土質で滑りやすい地質。武装した兵が、とてもひとりで登りきれるものではありません。さらに水をまいたり米をまいたりしてもっと滑りやすくした、などという言い伝えもあるそうです。
天正18年(1590)の山中城攻めの際、豊臣軍は箱根街道から岱崎出丸へ突入する部隊(中村一氏隊、山内一豊隊、一柳直末隊)と、北側の鎌倉古道から西櫓を攻める部隊(家康率いる徳川勢)に分かれて一気に攻めたてたといいます。今では遺構保護のために芝が張られていますが、往時はローム土がむき出しでもっと威圧感があったかもしれません。いくら豊臣軍が多勢とはいえ、この堀を目の前に脅威を感じたのではないでしょうか。

後北条築城術の粋を集めた、「障子堀」に感嘆!

後北条築城術の粋を集めた、「障子堀」に感嘆! ▲美しい陰影を見せる、西ノ丸の障子堀

畝堀と同様に山中城跡を有名にしたのは、何といっても巧みな防御の仕掛けである障子堀(しょうじぼり)の存在。その典型は西ノ丸堀で見ることができます。畝堀同様に堀底に畝を掘り残す方法ですが、幅の広い中央畝から両側に向かって直角に畝を掘り残したもの。その様が障子の桟(さん)のようであることから、障子堀(または堀障子)と呼ばれています。
角馬出(かくうまだし)が特徴的な、西側の防御の拠点である西櫓と西ノ丸の間。案内に沿って進むと、急斜面に挟まれた見事な障子堀が目に飛び込んできます。なんと美しい幾何学模様でしょう! まるで庭園の造作のようです。
区画の数値は畝堀とほぼ同様ですが、畝が複雑になった分、敵にとっては動きが制御され脅威が増します。一部には地下水のため水堀となった区画もあり、建築部材などの重要な遺物が確認されています。本丸と二ノ丸の間にもこの障子堀が見られます。『渡辺水庵覚書書』によると、本丸に集まっていた200人余りの北条側の兵と一番乗りを果たした渡辺勘兵衛をはじめとする豊臣勢が激戦を繰り広げ、敵味方が入り交り、障子堀になだれ落ちたと記されています。
天正18年(1590)の秀吉の攻撃に備え増強を図った山中城は、石を使わない、北条氏の築城テクニックの到達点といわれています。

山城の生命線、“水の確保”を探る

山城の生命線、“水の確保”を探る ▲夏に花を咲かせる、箱井戸のスイレン

尾根上にある山城は水の確保が大変困難とされています。山中城には「田尻の池」と「箱井戸」というふたつの池があり、箱井戸は飲料水用、田尻の池は洗い場・馬用として使われていたと考えられています。
箱井戸と田尻の池の間は土塁によって分離され、排水溝によってつながれているそう。これは湧水量が多く一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫だとのこと。貴重な水だからこそ、有効に使う仕組みが必要だったのでしょう。
さらに西ノ丸と二ノ丸の間には溜池と呼ばれる貯水池跡が確認されています。山田川の支流の谷を盛土によって仕切り、人口の土手を作って貯水。この溜池には本丸・北の丸などの堀水や西ノ丸の自然傾斜による排水、元西櫓(もとにしやぐら)の排水をも流れ込むように設計されており、その深さは4m以上。箱根山の地形を巧みに取り入れた水の確保にも、築城術の高さがうかがえます。

戦国を実感、迎え撃つための大規模な土塁

戦国を実感、迎え撃つための大規模な土塁 ▲右が二ノ丸の土塁。大手口に続く屈曲スロープ

完成度の高い堀で囲まれた山中城。掘ることで出た大量の土は、曲輪内の平坦化と土塁(どるい)を築くために使われました。山中城の土塁の配置は、敵の攻撃が想定される方向を正面に、曲輪の三方を囲むコの字型が基本。敵の侵入と射撃を防ぎ、視界を遮る役目をします。
本丸北側には基底幅15m、高さ4.5mという大規模な土塁が、南を除く三方に築かれています。さすがに本丸の防御、他とはその規模が違います。角馬出が特徴の西櫓にも、西からの攻撃に備えきれいなコの字型の土塁が見られますが、この2カ所においては一定間隔の柱穴が見つかっているそう。土塁の上に板塀があったことが推測されるとのことです。
二ノ丸虎口(こぐち)から大手口に向かって、土塁で囲まれた屈曲スロープを歩いてたどることができます。実際に歩いてみると、土塁からの攻撃がいかに脅威か実感できます。

山中城見取図

山中城

山中城見取図

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