山中城

やまなかじょう
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小田原の西の守りを担った山城

  • 名称やまなかじょう
  • 所在地三島市山中新田
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、横堀、土塁、櫓台、土橋
  • 築城年永禄10年(1567)頃
  • 城主・城将松田康長
  • 関連武将間宮康俊 一柳直末 武田信玄
  • 文化財指定国指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

秀吉軍の箱根越えに備えた国境防備の城

箱根山西麓(標高580m)に位置している山中城。昭和9年(1934)に国の指定史跡となり、昭和56年(1981)から城跡公園として開放されています。障子堀や角馬出(かくうまだし)、屈曲スロープの通路など、最新の後北条流築城術が見学できます。

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山中城は、後北条氏によって、本城である小田原城の西方を守備する国境警備の城、いわゆる境目の城として築城されました。したがって地域支配の政治的な役割を持つ城とは異なり、極めて軍事的要素の強い山城といえます。
山中城の築かれた場所は、箱根道から韮山城への道への分岐点という要衝であり、城内に道路を取り込んだ曲輪(くるわ)の配置は、足柄城とともに街道を封鎖する関所的な役割を担っていたと考えられます。
山中城の創築は明らかではありませんが、『甲陽軍鑑』品第三十五に永禄12年(1569)の武田信玄による山中城、韮山城攻撃のことが見えることから、駿河・甲斐・相模のいわゆる「三国同盟」が崩壊し、軍事的緊張が高まった永禄10年頃の築城と考えられています。そして、真田氏との名胡桃(なぐるみ)城を巡る抗争に端を発し、豊臣秀吉との確執が表面化し、その決定的な対決が現実的課題となった天正15年(1587)頃から大修築工事を開始。南西に位置する岱崎(だいさき)の地を出丸として城内に取り込み、増強を図りましたが戦いには間に合わず、天正18年(1590)3月29日の開戦となりました。寅の刻(午前4時頃)に始まったとされる激しい攻防は、中村一氏の配下で山中城一番乗りを果たした渡辺勘兵衛の「渡辺水庵覚書」に記されています。徳川家康方3万人、豊臣秀次方1万5,000人など、総勢6万7,000人に達する圧倒的な豊臣軍の前に、山中城城主の松田康長、副将・間宮康俊をはじめとした約4,000人の山中城守備軍は短時間で壊滅し、午の刻(12時頃)には落城し、そのまま廃城となりました。

成り立ち

築城の明確な時期は明らかではありませんが、『甲陽軍鑑』によれば、永禄12年(1659)、今川氏真を援助し、武田晴信と交戦中の北条氏が韮山、山中城等に加勢を入れたと言う記載が見られるところから、すでにこの頃には存在していたと考えられます。この時期は後北条氏の3代氏康の末期に当ります。したがって、今川義元、武田晴信と敵対関係にあった氏康の前半期に駿河東端部、伊豆北部の領国の支城の強化と本拠地である小田原城の西方防衛のため、箱根鷹之巣城などと共に築城されたと考えるのが妥当と思われます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

山中城は箱根山の中腹、標高580m付近に位置しています。南は桑原冷川の急斜面の谷、北は山田川の谷に挟まれた、東北から南西方向に延びる尾根上に位置し、東北端は小さな谷によってくびれています。西南方は城跡からやや離れて急になっています。遺構は、西南方向に延びる尾根上を主体とし、空堀、土塁により曲輪が設けられるとともに、南に曲輪が追加されています。曲輪の南部は鎌倉街道が通過し、館跡としての条件を設えています。南西部の尾根が岱崎曲輪(出丸)です。
昭和48年(1973)から三島市により史跡公園化に先だって発掘調査が行われ、昭和56年(1981)に城跡公園として一般公開されています。障子堀の遺構がよく残っている城として有名です。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

山中城跡全体図(作図:三島市教育委員会)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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