松野城

まつのじょう
  • 名称まつのじょう
  • 俗称・別名北松野城、城山
  • 所在地富士市北松野
  • 様式山城
  • 関連武将荻氏誉 福島正成 武田信虎 武田信玄

足利義満に仕えた荻氏によって築かれた丘陵城郭

松野城の初代城主であった荻氏誉は、はじめ京都に居住し室町幕府の3代将軍足利義満に仕えていたが、駿河国松野郷を領有するに至り、松野に土着し、子孫は約二百年間にわたり栄えた。氏誉より5代慶徳の頃に今川氏の被官となったが、大永元年(1521)12月、今川氏の重臣福島正成に属して甲斐侵攻に参し、武田信虎と甲斐一条原に於て戦い討死した。6代清誉は、永禄11年(1568)12月武田信玄と内房口に戦いやはり討死した。しかし子の久誉・君誉は、降伏して穴山信君に従いのちに君誉は、徳川家康に臣従した。
松野城は、富士川町北松野の西方に位置する「城(ジョウ)山(ヤマ)」にあり、丘陵の先端部を利用して築城された戦国期の丘陵城郭である。南側は急斜面となって有(ウ)無(ム)瀬川に下り、北方は、居館跡を始め、北松野を一望でき、甲州への街道を押える要衝の地である。尾根続きは、堀切を設けて後方を切断している。
城は、山頂を階段状に削平したものであり曲輪は、大小合わせて山上に6カ所余あり、最高地所は、東西に約33m、南北に約18mの平地であり、一の曲輪と推定される。一の曲輪の南端の崖に面して、高さ約1m、幅1~5mの土塁が東西に走っている。土塁は、一の曲輪を囲んでおらず、南側だけとなっている。一の曲輪より東にスロープを下ると、堀切りが現存する。幅6m、深さ1.9mで、二の曲輪と一の曲輪間の堀切りであり、この曲輪側に土塁を形成している。
二の曲輪は、ほぼ長方形をなし、東西36m南北約13mの規模であり、土塁は、堀切り側以外には認められない。二の曲輪の東側には幅3mの帯曲輪があり、その南寄りに5.6m四方の平坦地が残存している。一の曲輪の一段下に北から東にかけて幅約7mの帯曲輪が巡り北方の防備をしている。一の曲輪より西へ小曲輪が附属しており、2カ所の堀切りを設けている。幅3m、長さ15m余である。尾根を更に下ると大手口に至るが、途中岩石が露出しており、当時にあっては防禦に用いられていた可能性もある。
松野城跡には、石塁使用の個所は、認められないが、一の曲輪に至る通路の途中に門の礎石に用いられたと推測される立方体に近い岩石が1個残存し、又一の曲輪の北端部に比較的扁平は直方体の石材が放置されている。用途は、今のところ明らかでない。
当城は、戦国期小土豪の城として比較的原形を残す貴重な遺構である。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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