長浜城

ながはまじょう
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駿河・伊豆境目の海城

  • 名称ながはまじょう
  • 所在地沼津市内浦重須
  • 様式その他
  • 遺構曲輪、土塁、堀切、堅堀
  • 築城年天正年間
  • 城主・城将後北条氏
  • 文化財指定国指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

内浦湾の半島に築かれた北条水軍の基地

駿河湾奥の海上に突出した独立丘が長浜城である。規模は小さいが、南を除く三方を海に囲まれ、後北条氏の伊豆における水軍基地として重要な城であった。現在、西方は陰野川の河床となっているが、当時は海が入り込んでおり、ここが舟溜りとして利用されたと思われる。
城は、階梯式に西に低下する三つの曲輪を基本とした直線連郭で、東端に出曲輪、北に向って腰曲輪が三段に延びている。また丘陵南方の低平坦地一帯は田久留輪と呼ばれ、城主の館であったと推定されている。更にその西南に上條・中條・下條があり、根古屋形式をとっていた城郭と思われる。
内浦村誌によれば、北条氏政の書中に地侍大川氏(兵庫)が当城に拠っていたことが知られる。

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長浜城に関する記録は、天正7年(1579)11月7日の日付のある北条家朱印状に「長浜ニ船掛庭之普請・・・・・・」ときされているのが最も古い記録とされており、この頃までには重須湊の防衛拠点として長浜城が機能していたものと考えられます。また、同年12月19日付の北条氏光朱印状から北条水軍の統括者・梶原備前守が派遣されていたことが判り、当時駿河に進出してきた武田氏との緊張関係に備えていたことを知ることができます。翌天正8年(1580)には、武田水軍との駿河湾海戦の火蓋が切って落とされましたが、最終的な決着までには至っていません。しかし、その後、年月の経過によって大きく情勢も変わり、武田氏に代わって豊臣氏との緊張関係が高まっています。天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻めに際し、北条水軍の主力は下田に移されるなどしたことで、長浜城の機能は低下し、韮山開城とともに廃城となったものと考えられています。

成り立ち

駿河湾奥の海上に突出した独立丘が長浜城です。規模は小さいものの、南を除く三方を海に囲まれ、後北条氏の伊豆における水軍基地として重要な城でした。
出典:「静岡県の中世城館跡」

歴代城主

後北条氏

現在

現在、西方は陰野川の河床となっていますが、当時は海が入り込んでおり、ここが舟溜りとして利用されていたものと思われます。
城は、階梯式に西に低下する三つの曲輪を基本とした直線連郭で、東端に出曲輪、北に向って腰曲輪が三段に延びています。また、丘陵南方の低平坦地一帯は田久留輪と呼ばれ、城主の館であったと推定されています。更にその西南に上條・中條・下條があり、根古屋形式をとっていた城郭と思われます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

長浜城跡全体図(沼津市教育委員会)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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