興国寺城

こうこくじじょう
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城
  • 興国寺城

北条早雲 旗揚げの城

  • 名称こうこくじじょう
  • 俗称・別名杜若城、深田山城、根古屋城、久窪城、高国寺城
  • 所在地沼津市根古屋
  • 様式平山城
  • 遺構曲輪、土塁、伝天主台跡、城門跡、石垣、空堀
  • 築城年室町時代(1467年頃)
  • 城主・城将北条早雲 佐竹高貞 曾根正清 河毛重次 天野康景
  • 関連武将北条早雲 徳川家康 河毛重次 天野康景 武田信玄
  • 文化財指定国指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

戦国大名による争いの渦中に置かれた城

愛鷹山麓の尾根先端部に位置していた興国寺城。三方を浮島沼に囲まれた天然の要害であると同時に、東海道に続く竹田道と根方街道が交差する、交通の要衝を抑える絶好の地点に位置していました。現在、城跡は国指定史跡として保存されています。

続きを読む icon

現在の沼津市西部にある中世城郭の興国寺城は、戦国大名後北条氏の祖である北条早雲の旗揚げの城として知られています。
北条早雲については諸説あるものの、備中国高越城(岡山県井原市)の城主の子として生まれたと伝えられ、駿河国入りは、妹の北川殿が今川義忠に嫁いだことが縁とされています。早雲は、義忠が急死した後の家督争いで今川氏親を助けた功により、長享元年(1549)に富士郡下方十二郷を与えられ、興国寺城の城主となりました。
明応2年(1493)、早雲が伊豆へ侵攻すると、興国寺城は今川氏の城となり、今川義元が河東一乱後の天文18年(1549)に改修し、本格的な城郭となりました。その後、今川氏が衰退すると北条氏と武田氏による争奪が行われ、元亀2年(1571)には武田氏の城となり、天正10年(1582)武田氏滅亡以降は徳川氏の城となり、牧野康成、松平清宗が城主となりました。
天正18年(1590)の家康の関東転封後は中村一氏の家臣・河毛重次が城主となり、関ケ原の戦い後の慶長6年(1601)には天野康景が一万石の城主となりました。しかし、康景の家臣が幕府領であった富士郡原田村の百姓を殺害したことから代官の井出正次に訴えられ、康景は改易となり、慶長12年(1607)に廃城となりました。

成り立ち

興国寺城は根古屋の篠山、青野との境にあった同名の寺院を移し、その跡に築いたため、この名が起ったといわれています。
創築時代は明らかではありませんが、伊勢新九郎盛時(北条早雲)が今川家より、富士郡下方庄十二郷を与えられ、興国寺城を修理してこれに拠ったというのが初見です。この後、今川・武田・後北条各氏によって、城の規模拡大が行なわれたと考えられます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

城は愛鷹山麓の丘陵末端に位置し、中央に谷を挟み、宇古城と字大城とのふたつの丘陵で構成されています。従来、字古城の部分のみ注目されていましたが、根古屋形式をとる規模の大きな城郭であることが分かっています。古城と呼ばれることから、この部分を中心に発展していったものと思われ、後に根古屋(大城)にまで築造がひろがったものと考えられます。構造は、北から南に外郭・本丸・二ノ丸・三ノ丸と低下し、典型的な直線連郭階梯式を呈しています。外郭は北と南の空堀で画されており、北の空堀は深く、天守台から約18mもあります。この堀の平面形状は天守台部分が北に大きく張り出しているため「凸」状を呈し、上端幅が約30mあるのにもかかわらず東西方向からの見通しはききません。
本丸は、大土塁によって四囲を囲まれていましたが、南側の二ノ丸との境界土塁は崩され存在していません。北側土塁上は天守台と呼ばれる空間があり、櫓構築に使用された礎石も散在しています。平面形は東西に長い五角形状を呈し、南斜面には、二段にわたって石塁が残存しています。また東側土塁には腰曲輪も存在しています。
二ノ丸は東側の土塁一部を残し、土塁は崩され、堀は埋め立てられています。二の丸と本丸との境界である堀は中央の虎口で止まっており、東西ふたつありましたが埋め立てられ、旧状を残していません。二ノ丸東北には石火矢台がありました。
三ノ丸中央には東西に根方街道が貫通し、現在ほとんど宅地となっていますが、南部には土塁の痕跡が残存しています。二ノ丸と三ノ丸の境界西側には大手門があり、「竹田道(武田道か)」を南進して、東海道に進出することができました。また東側には東大手門があったといわれています。三ノ丸土塁外方は水濠あるいは深田で囲まれていたと思われます。
大城はやはり北から南に郭が低下し、中央に道が設けられていたものと推察されます。西側の一段高い西岸寺は奉行所跡、道を挟んだ東側は侍屋敷があったといわれています。北側の本法寺には土塁が東西に残存し、その南には平坦な曲輪が階梯状に連なっていますが、人家あるいは耕作地で旧状はよくわかりません。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

興国寺城跡全体図(沼津市教育委員会)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

トピックス

コメントする

このお城を共有・登録する