葛山城

かずらやまじょう
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今川・北条・武田の抗争に揺れた山城

  • 名称かずらやまじょう
  • 所在地裾野市葛山
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、土塁、堀切、畝状堅堀群
  • 築城年室町時代
  • 城主・城将葛山氏元 葛山信貞
  • 関連武将武田信玄
  • 文化財指定裾野市指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

東駿一帯に勢威を振るった葛山氏の本拠地

葛山の地に土着した藤原氏の末裔と伝えられ、鎌倉期から室町期、戦国期まで、東駿一帯にその名を馳せていた葛山氏によって築かれた葛山城。葛山城を中心とした葛山氏の本拠は、現在も開発の手がほとんど及んでいないため、その景観を保っています。

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葛山氏は、鎌倉期には御家人、室町期には将軍家奉公衆として名が見えるなど、駿東郡の有力氏族として勢威を振るっていました。室町後期から戦国期にかけては駿府に自邸を持つなど、駿河守護今川家の傘下に入っていたと見られていますが、家臣団の編成や宗教政策、交通路の整備などの領国経営を独自に行っていることから、半ば独立した国人衆としての姿も窺われます。葛山城はこの頃までに、葛山氏の本領防衛の拠点として創築されたと考えられています。
明応2年(1493)、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻に援軍を送ってからは、後北条氏とも誼(よしみ)を結び、深い姻戚関係を持っています。国人衆として独自の地位にあった葛山氏ですが、その領域が今川・北条・武田の領国に接しているため、今川・後北条の両氏と関係を結び、両属的な立場を保つことで生き残りを図っていました。しかし天文5年(1536)に今川義元が家督を継ぐと今川と後北条は対立し、「河東一乱」と呼ばれる争いに発展。葛山氏も両属的立場を維持することはできなくなったため、後北条方について今川氏と争ったと見られますが、天文14年(1545)に乱が終息すると再び今川氏との関係を復活させています。
永禄11年(1568)、武田信玄が駿河に侵攻すると、葛山氏元は信玄の誘いに乗り、武田方につくことで領地を安堵されました。しかし、今川氏真を助ける後北条方に本拠・葛山城を奪われてしまいます。
元亀2年(1571)に武田・後北条の両氏が和睦すると、葛山の領地は氏元に返還されましたが、信玄は六男の信貞を氏元の養子として名跡を継がせ、氏元を処刑してしまいました。葛山氏は武田家に乗っ取られ、以後葛山城は信貞の支配下に置かれましたが、天正10年(1582)に武田氏が滅亡すると廃城となりました。

成り立ち

葛山氏は、前駿河国司藤原惟康の子惟兼が、12世紀の初め、葛山に土着して葛山氏を称したとされています。鎌倉時代の動向は明らかではありませんが、この時期は、葛山を中心とする開拓途上の小御家人であったと推察されます。この頃の葛山氏居館として、上条地区に、それにふさわしい個所もありますが、資料もないので明らかにすることはできません。やがて南北朝時代になると、葛山氏の活動期に入ります。この時点で領域の防衛上、要害の地である現在の仙年寺の位置に居館をかまえ、その背後に葛山城の原形となるものを築いたのではないかと思われます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

葛山城は、愛鷹山から東方へ延びた尾根末端の隆起部頂を主曲輪とし、それを中心として下方へ2段の帯状の曲輪を配し、東西の鞍部に二重の空堀切を設けた、東西140m、南北65mの規模の遺構を城跡としています。
主曲輪は、山頂部を削平した南北約45m、東西約25m~30mの平場をなし、北から南へ向ってやや傾斜し、北側に地山を削り残したコの字状の土塁を築成して、その東隅は見張台らしい遺構となっています。主曲輪西側直下に方15mの張出平場があり、北側に出入口があります。主曲輪より5~6m下段に、主曲輪を廻って幅4~8mの帯状の平場があり、西側は方25mの不整形な曲輪に連続しています。この部分を二の曲輪と称します。二の曲輪と、これに連続する帯状の平場外縁には、土塁が残存し、帯状平場の東側は、やや幅が広くなって、その突き当りは地山を切り残した牆壁となり、牆壁の上は小さな平場となっています。二の曲輪西端に出入口(門跡)があり、内側に方4mの桝形囲があります。二の曲輪より4m下段に、幅4~5mの平場が回り、その外縁部に土塁が残存しています。南西部分に、この平場を区切る畝状遺構があり、これを越えると西端突当り右側に、二の曲輪への登口があります。この最下段帯状平場に直角に幅4~5mの堅空堀が4ヵ所、山脚へ向って掘削されています。以上の遺構を東と西から大きく防禦するため、尾根の鞍部を利用して、幅10m、深さ3mの二重の空堀切を設けています。主郭北側急斜面には、最下段の平場に連続するテラス状の平場が廻っていますが、全体に崩壊して明瞭ではありません。
本城跡を紹介した諸文献には、本城東方の尾根上の海抜248.1mのところに東南曲輪、海抜229.3mのところに大手曲輪、また本城西側の海抜273.3mの尾根上に西曲輪のあることが述べられていますが、いずれも遺構は明らかではありません。
本城跡の範囲を何処までにするかは判断が難しいものの、本城直下にある仙年寺境内は、東西70m、南北40mの平場で、南の水田面より4mの高さがあり、山門前方100mのところに掘田と称する幅10mの田が東西に走り、その両端は仙年寺を両側から包む小尾根の突端に接続し、また、この小尾根上に舌状の平場がみられることから、仙年寺は城域内と見ることができます。さらに仙年寺東方100mの尾根末端に、居館を築いた時の土取場という、方50mの凹地があり、南隅に幅3mの切り通しがあります。この凹地を馬場とも言い、以上のことから、仙年寺を含めて一応この辺りまで、城域であったと考えられます。
なお、この葛山城は葛山氏の詰の城で、城の南東400mほどのところに平時の居館がありました。詰の城と居館の両方がよく残っている珍しい例です。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

葛山城跡概要図(作図:溝口彰啓)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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