深根城

ふかねじょう
  • 名称ふかねじょう
  • 所在地下田市稲梓字堀之内
  • 様式山城
  • 関連武将関戸播磨守吉信 北条早雲
  • 文化財指定下田市指定史跡

北条早雲に反抗した関戸播磨守吉信が手勢を率いて立て籠もった城

稲生沢川の上流、稲梓の通称堀之内にある城跡。築造者、築造年代共に不詳であるが『北条五代記』は、延徳3年(1491)北条早雲が伊豆・韮山の堀越御所を攻略したさい、早雲に反乱した関戸播磨守吉信が手勢を率いてたてこもり、攻略軍と対し抗戦後落城したと伝えている。
城跡は、海抜約70mの山腹に位置する東西約100m、南北約150mの台地上に立地しているが、北側及東西の三方は急峻な斜面を成し背後は丘陵に囲まれた自然の要害である。現在、城跡のあった通称、上ノ殿と呼ばれる場所には人家が数棟存在しているため、すでに遺構は消滅しその旧状を知ることはできない。ただ、木戸段・大旗小路・殿畑・御筏場・大鐘等往古をしのぶ地名や、古井戸が残っているだけである。従って、その形態や築造時期等についての詳細は不明であるが、この点について伊禮正雄氏は、“一種の馬蹄形の尾根に取り囲まれた居館と、背後の山を詰の城とする形式や、遺構の規模からみて少なくとも南北朝時代(14世紀中頃)には存在していたもののようである”としている。
いずれにせよ、この深根城は15世紀には存在していたことは確かであり『北条五代記』に於ける深根城攻防の記録がこれを裏付けている。ただ、この時深根城にたてこもり早雲に対した関戸播磨守吉信については異説があり、『鎌倉公方九代記』や『北条記』等は堀越御所で戦死したと記している。また、これに関して地元には、関戸播磨守吉信は堀越公方をついだ茶々丸を奉じて深根城に拠り、落城後は河津の梨本で切腹したという伝承があり、城跡西方約300mにある槇ケ窪には茶々丸夫妻の墓と称する宝篋印塔と五輪塔も存在する。もちろん、この伝承についての真偽は定かではないが、城跡の対岸にある龍巣院が、永享三年に関戸播磨守宗尚なる人物によって開かれたと伝えられること等から考え、関戸氏の一族、あるいはそのゆかりの者がこの深根城に拠って、北条早雲に抗したことは歴史的事実であろうとみなされている。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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