下田城

しもだじょう
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天然の要害を活かした海城

  • 名称しもだじょう
  • 俗称・別名鵜島城、城山
  • 所在地下田市三丁目
  • 様式山城
  • 遺構土塁、空堀
  • 築城年不明、天正16年改修整備
  • 城主・城将清水康英(後北条氏伊豆郡代)
  • 関連武将清水康英 江戸朝忠 梶原景宗 本多重次
  • 文化財指定下田市指定文化財
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

豊臣水軍の来襲に備えた後北条水軍の本拠

下田湾に突き出た鵜島と呼ばれる半島上に築かれた下田城。城の北側に位置する稲生沢川河口の船着場への安全な航行と、南伊豆における後北条水軍の制海権確保を主な目的としていたと見られています。現在、城跡は下田公園として整備されています。

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下田城の築城年代は明らかにされていませんが、天正15年(1587)、全国統一を進める豊臣秀吉が九州を平定し、遂に残すは関東と東北のみという状況となったため、翌年、北条氏直は来襲が確実な豊臣水軍の行動を抑える目的で下田城の大改修を実施しています。そのため16世紀前半から中頃に築城されたものと思われます。
小田原へと向かった豊臣水軍は、長宗我部元親2,500、九鬼嘉隆1,500、脇坂安治1,300に、加藤嘉明勢や毛利水軍等が加わった総勢1万4,000余人と伝えられ、天正18年(1590)清水港(江尻)に集結し出撃、伊豆半島西海岸に点在する後北条氏方の拠点を攻略し、下田城に迫りました。対する後北条勢は、城将・清水康英を中心に総勢600人余。戦いの様子は明らかではありませんが、圧倒的な兵力を有した豊臣勢は、無理な攻略はせず、海と陸の両面から城を包囲したと考えられ、清水康英らは、籠城50日余の末、豊臣方の勧告を受け入れ、開城しました。豊臣勢も、ただ単に海上封鎖するだけでなく、周辺域に上陸し、陸上を制圧するなど、内陸部からの攻勢を強めたものと考えられています。
城は、後北条氏滅亡後も継続使用されていたと見られていますが、徳川家康が江戸に幕府を開くと、その存在意義を失ってしまいました。やがて幕府は、下田に奉行所を置き、市街地に居館を構えました。

成り立ち

下田城は、戦国大名北条氏が天下統一を目指す豊臣(羽柴)秀吉の軍勢から領国を守るために改修整備した城です。戦国時代末期、小田原を拠点とする後北条氏と豊臣氏の軍事的緊張が高まると、天正16年(1588)、北条氏直は伊豆郡代の清水康英を下田城の城将に任じ、海路より襲来する豊臣水軍に備えて防備を固めました。

現在

開城後の城跡は、江戸時代を通して幕府の御料林として保護され、維新後は宮内庁の管理下で公園となり、後年下田町が払い下げを受け、整備をしました。今日では城跡内に広く紫陽花や椿が植栽され、市民の憩いの場としてだけではなく、催事会場として多くの人々に親しまれています。
城は下田湾に張り出した半島状の丘陵に築かれています。通称天守台と呼ばれる海抜約700mの高台を中心に曲輪や空堀、櫓台が配されており、敵水軍の襲撃から湊を防御することを強く意識した独特の縄張となっています。特に総延長700mに及ぶ空堀は、後北条氏が築いた城郭の特徴である畝堀で、残存状態も良く、今日でもその形状を見ることができます。

縄張図

縄張図

下田城跡概要図(作図:加藤理文)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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