戸倉城・太鼓櫓

とくらじょう・たいこやぐら
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街道と狩野川の見張りの城

  • 名称とくらじょう・たいこやぐら
  • 俗称・別名本城山、徳倉城、城山
  • 所在地駿東郡清水町下徳倉字和田入他
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、堀切、二重堀切
  • 築城年天文年間(1532~1554)
  • 城主・城将北条氏堯
  • 関連武将笠原新六朗

今川氏・後北条氏・武田氏の抗争のなかで築かれた城郭

戸倉山から北東方面に延びた丘陵の先端部、通称本城山に築かれた戸倉城。北方向は沼津から小田原へと至る東海道、東方向は修善寺方面への物資の補給路である狩野川や街道を望むことができ、これらを監視する役目を担っていました。

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『龍泉寺記』によると戸倉城は、文明年間(1469-87)に今川氏が築いたとされていますが定かではありません。『興津文書』には今川氏真感状のなかに戸倉城の名が見えることから、天文年間(1532-54)以降に激化した今川氏・後北条氏・武田氏らによる抗争の中で築城されたと見たほうがよいと思われます。また、『家忠日記』によると永禄12年(1569)に今川氏が滅んだ後、戸倉城には北条氏尭が入城。天正9年(1581)に武田勝頼がこの地域で勢力を拡大し、一時戸倉城を奪取したものの、翌年織田信長に滅ぼされると、再び北条氏政が支配したようです。城の廃城時期は後北条氏が天正18年(1590)に豊臣秀吉によって滅ぼされた頃と見られています。
戦国期後半の戸倉城は、古記録で見る限り、今川氏・後北条氏・武田氏ら有力戦国大名から重要視された拠点城郭と見られていますが、城の構造は極めて単純で、拠点城郭の構造をなしていません。そのため、兵力の駐屯場所というより、街道と狩野川の見張りとしての機能が重視されていたのではと推察されます。ただし、二の曲輪の西側の二重堀切は、内側の堀の規模が大きく、明らかに新しい要素と見られるため、天正年間に改修された痕跡と思われます。

成り立ち

本城城内にある龍泉寺寺記によれば、文明年間(1469~87)に今川氏が本城を築いたと伝えられています。また、駿河志料等によると、後北条氏支配の城で、永禄12年(1569)から武田氏との交争が激しくなり、このため北条氏堯がその経営に当ったといわれています。その後、城主笠原新六が天正9年(1581)に沼津の武田氏に服したため、城は武田氏の手に移りましたが、翌10年に再び後北条氏のものとなりました。天正18年(1590)の小田原征伐の時、北条氏は城を撤収し、以後廃城になったと伝えられています。
本城は駿豆の境目の城といわれており、狩野川西岸の地域を守る重要な役割を担っていました。また、本城の形態は山頂部を利用した城で、居館を備えた、鎌倉期のものに共通するところから、その成立はかなり古いのではと考えられます。古くから「本城」といわれていることから、或る時に領主支配的な経営があったことも考えられます。

現在

本城は狩野川が清水町下徳倉地先で、大きくコの字状に迂曲する内側の徳倉山塊から東方へ切離された、標高75mの通称本(ホン)城(ジョウ)山(ヤマ)(又は龍泉寺山)に位置し、城域は太鼓櫓の烏帽子(エボシ)岳を含めて、長700m、幅300mあり、脚部からの比高は65mとなっています。
本城山頂部を本曲輪とし、東方及び北方に下る稜線部にS字状の空堀と竪堀に画された平場が連続し、南方へ下る稜線上にも十数段の狭長な平場があって、龍泉寺山門わきに虎口があります。西側の低い稜部は、本城山と空堀切で画され、同様状の平場が連続して一つの曲輪を構成しています。
沼津方面に向う出入口西側には、徳倉山末端の丘陵頂部に数段の平場があって、ここを大手曲輪としています。大手曲輪から徳倉山へ続く稜部に三本の空堀切りがあり、これより急な尾根斜面を標高140mの烏帽子岳まで登ると「物見台太鼓櫓」があり、僅かな平場があります。本城山南直下の狩野川に面した龍泉寺境内は居館であったといわれています。在番城士の居住地は狩野川対岸の柿田集落であったようです。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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