深沢城

ふかさわじょう
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駿河北部の境目の城

  • 名称ふかさわじょう
  • 所在地御殿場市深沢
  • 様式平山城
  • 遺構曲輪、土塁、馬出、堀
  • 築城年永正年間(1504~1521)
  • 城主・城将今川氏 北条綱成 駒井昌直 三宅康貞
  • 関連武将武田信玄 徳川家康
  • 文化財指定静岡県指定史跡
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

後北条氏と武田氏との激しい争奪戦の舞台

馬伏川(旧抜川)と抜川(旧宮沢川)の合流点にあたる比較的平坦な台地に立地する深沢城。城の南には甲州街道から分岐した足柄街道が通り、駿河・甲斐・相模の国境を結ぶ交通の要衝であることから、「境目の城」として戦略上重要視されていました。

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深沢城の創築年代は定かではありませんが、今川氏が永正年間(1504~21)頃、甲斐に出兵した際に本格的な築城を行ったとも言われています。
深沢城が脚光を浴びるのは、永禄11年(1568)、武田信玄の駿河侵攻に端を発する後北条氏と武田氏との争いの舞台となってからです。今川氏真を駿府から追った信玄に対し、北条氏康・氏政父子は氏真を救援する大義名分をもって武田軍を攻撃、薩埵山以東を制圧し、撤退させることに成功します。しかし、甲斐本国で態勢を立て直した信玄は、翌永禄12年(1569)から再び駿河に来襲し、北条方であった深沢城を永禄13年(1570=元亀元年)に落城させました。これに対し北条氏も即座に反撃し、守将駒井昌直を撤退させ、奪還しました。深沢城には北条綱成・松田憲秀らが入り、守りを固めていましたが、同年12月、信玄は自ら兵を率いて深沢城を取り囲み、甲斐中山金山の金掘衆に城を掘り崩させるなど、激しく攻め立てました。同時に興国寺城を攻めて援軍を断ち、有名な「深沢城矢文」を放つなどして北条方に開城を求めると、城将北条綱成は籠城を断念し開城しました。
武田と後北条が和睦したことにより、深沢城は武田方の駿東郡北部における拠点となっていましたが、天正10年(1582)の武田氏滅亡に際して、深沢城を守る駒井昌直は城に火を放ち、退却しました。その後は、駿河・甲斐を制した徳川家康が深沢城を有することとなり、天正12年(1584)には後北条との国境守備のために三宅康貞を入れて守らせています。天正18年(1590)に後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、深沢城も「境目の城」としての役割を終え、廃城となりました。

成り立ち

深沢城の名は、有名な「深沢城矢文」によって、全国的にも知られ、また、遺構の残存状況の点からみても県下有数の城跡といえます。所在地は御殿場市深沢小字本城で、「城」「城の前」「根古屋」などといった城館址関連地名があることからも注目されます。
『駿河記』に「今川家取立の城なり」とあることにより、今川氏創築といわれています。しかしながら、今川氏の誰が、いつ築いたかを示す確かな史料は存在していません。ただ、可能性としては、永正11年(1514)、甲斐が内紛状態に陥ったとき、駿河の今川氏親が葛山氏・庵原氏・朝比奈氏らの兵を甲斐に送りこんでいることがあり、その頃、氏親がこの付近の軍事・交通上の価値をみてとり、それまで深沢氏の小さな城だったものに大がかりな修築をほどこしたのかもしれません。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

本城は旧御殿場地区より北東に流れる馬伏川(旧抜川)と抜川(旧宮沢川)の合流点に挟まれた、南北500m、東西100~300mの平坦な台状地形のところを城域とし、御殿場より足柄峠を越えて相州に至る足柄街道を扼す重要な地点に位置しています。
本城は深沢台地を深く抉った馬伏川と抜川の渓流を最大の防禦とし、その内側を空堀で仕切って連郭状に三つの曲輪を構成しています。合流点最奥の曲輪をⅠ曲輪とし、長さ約150m、幅60~90mあり、南側の虎口両側に土塁が残っています。合流点附近を大堰といい、水流をせき止め、両河川を水濠にしたといわれています。中央のⅡ曲輪とは土橋で繋がり、三つの空堀が振り分けとなって、その間に馬出し曲輪があります。広さは長さ125m、幅70mあり、南西側から東にかけて土塁が残っています。ほぼ中央には井戸址があったとされています。Ⅰ・Ⅱ曲輪外側傾斜面には犬走り状のものが残り、一部分は小径となっています。入口部のⅡ曲輪とは、やはり土橋で連繁し、空堀は鍵の手にふり分けられ、この部分に馬出し曲輪があります。Ⅲ曲輪の広さは長さ90m、幅75mあり、西側から南にかけて土塁が残っています。この南西外側に三日月形の空堀があり、一曲輪をなしています。これを大手口としています。南東側にも虎口があり、その前面に空堀をめぐらした馬出し曲輪を構え、このあたりを「城の前」といいます。この馬出し曲輪及び三日月堀の周辺のかなり広い範囲に渉って土塁、曲輪状遺構があり、外曲輪を形成しています。特に南西端の抜川富見橋を「裏門」といい、長さ70mの土塁が残っています。ここをまた「家老屋敷」といいます。 Ⅰ・Ⅱ曲輪からは、かつて青銅製鶴の床置、鎧残欠、刀柄、焼米などが出土したそうです。
Ⅰ曲輪の馬伏川を隔てた西側対岸を小字根古屋ということから、在番城士の居住地であったと思われます。なお、深沢城城門とする建造物が、小山町中島勝福寺、同町菅沼十輪寺、御殿場市深沢大雲院の山門として、それぞれ保存されています。なお、本城は北駿地方を押え、支配する要の城と見てよいと思われます。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

深沢城跡概要図
出典:静岡県の中世城館跡

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

コメント(1)

自分の住んでいる御殿場に城跡があったこと、戦いに巻き込まれてたことに驚くとともに感動しました。私は日本の歴史が大好きなのでもっともっと身近なところも調べて見ようと思います。

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