河津城

かわづじょう
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河津の地を領した蔭山氏の山城

  • 名称かわづじょう
  • 俗称・別名山城
  • 所在地賀茂郡河津町笹原
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、虎口、堀切
  • 築城年明応2年(1493)
  • 城主・城将蔭山氏広
  • 関連武将伊勢新九郎盛時(北条早雲)
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

河津の浜や河口を一望する海上監視の城

河津川の河口付近の北側に展開する「城山」あるいは「大日山」と呼ばれる円錐形の山頂に築かれていた河津城。戦国期、河津川の河口に湊があり、河津城は海上の船の動きと湊に入る船を監視していたと見られています。

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河津城の築城者は、江戸時代に掛川藩が編纂した地誌に「蔭山氏城跡」との記載があり、この蔭山氏城跡が現在の河津城だとするならば、江戸時代の時点で蔭山氏の居城としての伝承があったと思われます。
『寛政重修諸家譜』によると蔭山氏は、関東公方足利持氏の七男・広氏が3歳のときに永享の乱(1439)がおこり、乳母とともに河津の地に落ち延び、その後、在地の蔭山氏の婿となったと記されています。この広氏が実在の人物であったどうかは分かりませんが、正長3年(1430)に持氏が発給した寄進状が沢田林際寺に残されており、関東公方と河津の蔭山氏が何らかの関係があったと推察されます。
河津城の特徴は、主だった曲輪でも土塁のない曲輪で、北側の尾根筋の防御は、二重堀切状ではあっても幅が5m程度のものが主体で、下田城のような後北条氏が築城した天正年間の城の姿とは異なっています。この頃の伊豆は、明応2年(1493)に伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、韮山の堀越御所を襲い、足利茶々丸を滅ぼしてから数年で伊豆全域を制圧したと考えられています。伝承によると当時河津を治めていた蔭山広氏は河津城に籠城したものの、盛時の火攻めにあって落城し、その後盛時の軍門に降り、小田原衆に編入されたといわれています。 現在確認できる河津城の姿は、この明応2年に近い時期のものと見られますが、下田と小田原の間の海上ルートをつなぐ河津湊の重要性から見ると、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、軍事的な拠点ではなく、海上ルートの監視所として後北条氏方の城として使われていたとも考えられます。

成り立ち

鎌倉公方足利持氏の七男、蔭山勘解由によって築城された城といわれています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

城跡は、河津川河口の東側にそびえる海抜180.7mの城山山頂に立地し、東西約20m、南北約40mの山頂部に2段構えの郭が現存する他、城跡北側の山腹に空堀も残っています。連郭式の典型的な山城で、河津川の流域及海岸沿線を見わたせる自然の要害上に位置しています。なお、城跡西側の山麓には、蔭山という地名が現存し、蔭山氏代々の居館跡と伝えられていますが、往時の“蔭山”はもう少し西であったと考えられています。
出典:「静岡県の中世城館跡」
平成3~4年に実施した発掘調査により、山頂の本郭から倉庫小屋と見られる建物跡が発見されました。また山頂周辺では15世紀後半から16世紀前半にかけての常滑焼の大甕や瀬戸焼のすり鉢などが出土しています。このことからこの城の築城年代は15世紀後半と考えられます。

縄張図

縄張図

河津城跡概要図(作図:松井一明)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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