生土城

いきどじょう
  • 名称いきどじょう
  • 俗称・別名生土城山
  • 所在地-
  • 様式山城

上杉禅秀の乱によって鎌倉公方・足利持氏が3年間居住したと伝えられる城

駿河記その他の文献に據ると、応永23年(1416)、上杉禅秀の乱によって、鎌倉公方足利持氏が3年間本城に居住したというが実証するものがない。
本城跡は小山町生土の北西から南へ派出した半島状丘陵の先端部標高380mの小字城山と称する山頂に位置する。山頂の平坦部を利用して、長さ500m、幅25~50mの範囲に三つの郭が構成される。主郭は長さ175m、最大幅50mあり、西に向って三段の平場がある。両端は幅6~8mの空堀切で画され、空堀切は左右へ涸沢状の竪堀となって山脚へ落ち込む。北西側の後郭は長さ200m、最大幅40m、南側の前郭は長さ100m、幅25mある。前郭には三段の平場があり、最下段の平場付根部に井戸跡がある。井戸跡のある平場の下に、さらに狭い帯状の平場がめぐり、主郭と画する空堀切りまで達しているが、崩壊して明らかでない。その前面に2本の竪堀状の遺構が観察できる。
本城は南は鮎沢川、東は頓沢、西は野沢川に囲まれ、城山山頂部に至る斜面は急峻であり、遺構は簡単であるがすこぶる要害堅固である。また北駿から相模へぬける交通路を扼し、双方へ進出する據点として絶好な地理的位置にある。
周辺の関連地名からみて、独立した城郭として領主的支配経営のあったことを推定することができる。しかし居館跡は種々の考察があるが明らかでない。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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