鎌田城

かまたじょう
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15世紀に築城された伊豆の山城

  • 名称かまたじょう
  • 所在地伊東市鎌田
  • 様式山城
  • 遺構曲輪、堀切、空堀、土塁
  • 築城年明応2年(1493)頃(堀越御所内紛期)
  • 城主・城将伊東氏 鎌田氏
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

伊東を支配し南北の街道を監視する城

伊東市を流れる伊東大川の中流にある谷の最奥部に位置している鎌田城。相模湾の眺望は認められるものの、海岸線から奥まった位置にあたるため、湊のある伊東から冷川峠を越えて、大見・修善寺方面に抜ける街道の監視所として機能していたことが分かります。

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鎌田城の発掘調査において、15世紀末から16世紀初頭の古瀬戸のすり鉢や皿類、同時期の常滑産の壺、中国産の青磁碗などの遺物が出土しています。この時期は、明応2年(1493)に伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、韮山の堀越御所を襲い足利茶々丸を滅ぼした後、数年間伊豆半島を制圧していた戦乱の時期と一致するため、少なくともこの時期には築城されていたと見られています。
現在見ることのできる城の構造は、大規模な堀切、枡形状虎口を持ち、複雑な城内道の設置が確認できます。そのため、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、下田城と小田原城の中間地点における海上ルートと、修善寺方面からの街道ルートの監視所として、後北条氏によって大改修されたもので、明応2年段階の姿は残していないように見えます。

成り立ち

源義朝の家臣鎌田政家の子・鎌田新藤次俊長の城跡。平治の乱に敗れ、京都を逃れた義朝主従は、東国に下り再興をはかろうとしましたが、尾張の野間で旧臣の長田忠致に殺されました。この時、俊長は相模にいましたが、まもなく伊東へ移り、松川上流の地勢堅固な山に城を構えました。鎌田の地名は、俊長がこの付近一帯を支配する事から起ったものと考えられます。元々源氏方である鎌田氏に対して、心よく思わなかった伊東祐親は、頼朝挙兵(治承4年1180)に俊長が参画すると、その留守中に鎌田城を攻め落としたと言われています。
出典:「静岡県の中世城館跡」p.150
出土遺物は縄文時代のものを除くと、十五世紀後半期のものと十八世紀以降の二者だけで構成されています。
出典:「伊東市の今・昔−伊東市史研究.第4号」p.138~139
後北条氏が活動する十六世紀代の遺物がこの城に見られず、遺構に改変の跡もないという事実には注目する必要があります。従来、鎌田城については、後北条氏の支配時代(十六世紀代)の、しかも後半期の城であると考えられてきました。約1万5千~という広大な面積をもつ城に対する評価としては当然かもしれませんが、出土遺物は北条早雲が伊豆に進出する前に築城された城であることを示しています。
出典:「伊東市の今・昔−伊東市史研究.第4号」
※平成十四年に一部を伊東市教育委員会により試掘調査した。

現在

享保年間(1716~36)の文書によれば、「城跡本村より23町、1の堀切長6間幅4間、2の堀切長9間幅2間、3の堀切長13間幅3間、皆村より上り口也。外通り堀折曲し、257間、幅3間、深さ地際より5間。中通り堀折曲し216間、幅3間、深さ4間半。本城堀折曲し92間、幅3間、深さ5尺。本城内通りにて、南北25間、東西22間。2の曲輪、東西10間、南北44間、南方東西48間、西方東西8間、南北14間、北方門跡小口道幅3間。村より口大手也と云う、東方門跡小口門幅道幅同上」との記録が見えます。
現在は、頂上付近の平坦部に若干の石垣が残っています。また、以前部落にあった竜爪神社が祀られています。
城山下には松川が流れ、北東方に伊東氏館があります。さらに相模灘を眺める事ができます。また、東南方に吉田・十足方面を見渡す事ができます。このような地勢から、外敵の進入については充分に監視ができたものと考えられます。なお、城山周辺には八代田・城ノ平・城ノ木戸などの小字名が残っています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

縄張図

縄張図

鎌田城跡概要図(作図:松井一明)
出典;静岡の山城 ベスト50を歩く

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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