丸山城

まるやまじょう
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駿河湾を見渡す北条水軍の城

  • 名称まるやまじょう
  • 俗称・別名円山
  • 所在地伊豆市八木沢
  • 様式山城
  • 遺構曲輪
  • 築城年16世紀後半

西伊豆沿岸一帯に大きな勢力を振った富永氏の出城

西伊豆の土肥港から山際を南西に回ると小さな谷底平野があり、その西縁に丸山城はあります。駿河湾一帯を見渡せる「円山」と呼ばれる小丘陵に築かれた水軍の城といわれています。

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戦国時代、土肥一帯は北条氏の重臣富永氏によって支配されていました。富永氏は伊豆に侵攻した伊勢新九郎盛時に、比較的早い時期から臣従していて、諸記録に官途名や名乗りの異なる人物が現れていることから、富永氏は複数の系統で構成されていたと思われます。「北条氏所領役帳」には、1383貫730文の知行を持つ江戸城の城番、富永弥四郎の名前が見えます。1300貫を超える知行は、北条氏の家中でもかなりの高禄といえます。この他「北条五代記」にも、船手大将梶原備前守のもとに、水軍の将として富永三郎左衛門の存在が知られています。この三郎左衛門は、弘治年間(1555~58)、江戸湾を挟んだ里見氏との戦闘以降活躍がみられる。その後は武田氏と対峙、天正8年(1580)4月、翌年の3月と12月に西伊豆沿岸へ武田水軍が来襲した際にも迎撃に加わっています。このような駿河湾をめぐる緊張状態に前後して、見張り機能に長け、手ごろな入江を持つ円山一帯に、富永氏が水軍の城として整備していったものと考えられます。
丸山城の最後は明らかでなく、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に交戦したかも定かではありません。小田原城開城と北条水軍の解体に伴い、存在意義を失い、廃棄されたと思われます。

成り立ち

本城は、土肥・高谷城主富永氏の出城とされています。富永氏は、北条氏に属し、西伊豆沿岸一帯に大きな勢力を振った一族です。本城は北条氏の西に対する沿岸防備の一翼を担う水軍基地であったと思われ、天正18年(1590)3月、豊臣水軍の攻撃をうけて落城したものと思われます。

現在

城は、八木沢部落の西側、突き出した丘陵先端部に位置し、北側の独立丘的山が出丸跡(旧城)、南側の丘陵が本城跡(新城)とされています。出丸跡東側は、現在、埋め立てられていますが、かつては広大な入り江で、港として使用されていいました。
出丸跡と本城跡との間は、現在、国道136号線が通り、その北側下方に幅10m前後の空堀があります。
出丸跡は、標高46mの山で、山腹に腰曲輪が存在し、山頂は、東西30m、南北50mが平坦で、一部崩れてはいますが、東北隅に高さ0.6m~1.2m、幅1mの土塁をめぐらした5m四方の曲輪が存在しています。内部には、小さな祠があり、巨松が立っています。北側は、いくつかの段をなして断崖となっていますが、いわゆる塁段かは不明です。
本城跡とされるものは、国道の南側にあります。その中核は、標高50m程の所にありますが、遺構らしいものは、さらに南に延びて、津島神社の祀ってある字天王平まで存在しています。この間に3つの空堀が存在したと思われます。天王平は、標高115mで、ここは物見台的役割を担っていたと思われます。
中核は、国道から、少し入り、塁段と思われるところを登ったところにあります。中央部に台形状の曲輪があって、東北隅に木戸口があり、その左右、南北に曲輪がついています。曲輪は石垣をめぐらしていますが、特に西側海寄りに顕著にみられます。
この本城跡は、その縄張りにかなり甘さがみられ、戦国末期急きょ拡張され、未完に終ったものといわれています。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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