修善寺城

しゅぜんじじょう
  • 修善寺城
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『太平記』にも登場する山城

  • 名称しゅぜんじじょう
  • 俗称・別名立野城、立野要害
  • 所在地伊豆市修善寺
  • 様式山城
  • 遺構石積み
  • 関連武将畠山国清 足利基氏

鎌倉公方・足利基氏に叛き、伊豆に下った畠山国清が築いた3城の1つ

修善寺駅の西側を流れる狩野川に架かる修善寺橋から上流右手に見える独立丘陵に築かれていた修善寺城。城跡一帯は狩野川とその支流である桂川に挟まれ、随所に急峻な斜面を持つ天険で、その名は軍記物語『太平記』にも登場します。

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修善寺城のある修善寺の地は、温泉地として有名ですが、河津・下田方面へ抜ける下田街道と、冷川峠を経て戸田へと至る街道が交わる、交通の要衝でもあります。また、当地の地名となっている修善寺は、弘法大師創建と伝わる寺院で、伊勢新九郎盛時(北条早雲)によって曹洞宗に改宗し、後に盛時を荼毘に付した場所でもあります。
修善寺城の存在は『太平記』などで知ることができ、それによると、室町時代のはじめ、伊豆国の守護職にあった畠山国清は、鎌倉公方・足利基氏の舅で、執事として辣腕を振るっていました。延文4年(1359)、国清は畿内の南朝勢力を平らげるため、関東の軍勢を率いて上洛したものの、在陣が長引く中で配下の無断帰国が相次ぎ、やむなく鎌倉へ引き揚げました。無断で帰国した諸将に対して国清が下した処断は厳しく、やがて彼らの不満となり、ついには1000人余り基氏へ訴えでました。政権の崩壊を危惧した基氏は、国清を鎌倉から追放しました。国清は伊豆国へ300騎を率いて落ち、康安元年(1361)11月、三津城・金山城・修善寺城へ立て籠もりました。これに対して基氏は安保泰規、波多野高道、岩松直国、志村刑部丞らを、将軍・足利義詮は金子越中守を大将に、総勢およそ20万もの軍勢を派遣しました。一方、国清に呼応する武士は少なく、頼みにしていた狩野荘を本拠とする狩野介も味方につけることができず、次第に追い詰められていきました。ついには三津城・金山城を焼き払って放棄し、修善寺城に籠城しました。貞治元年(1362)8月、基氏自らが討伐軍を率いて伊豆へ向い、同年9月、兵糧の尽きた国清は、基氏からの降伏勧告を受けて投降し、10ヶ月におよんだ騒乱は終結しました。後年、修善寺寺は豊臣秀吉による小田原攻めに対して改修が施されたとも伝えられていますが、定かではありません。

成り立ち

『増訂豆州志稿』は当地について、『太平記』『鎌倉九代記』に記載されている畠山国清が構築した修善寺城跡と伝えています。同書によれば、延文5年(1360)に鎌倉に下ったとされる畠山国清は、弟義深等と康安元年(1360)、鎌倉公方・足利基氏にそむき、伊豆に下って、三津・金山・修善寺の3城を構えました。基氏は常陸の平一揆を指し向けましたが、伊豆府に入った軍勢は葛山備中守との所領争いを起し、この期に乗じた畠山配下の遊佐・神保・杉原等の軍に逆襲されて引き上げてしまいました。さらに基氏は8ヶ国の軍勢を指し向けました。この期になって後援する伊豆の狩野介以下の軍は降参し、畠山軍は三津・金山の2城に火を放ち、修善寺城に籠城しましたが、兵糧攻めに合い降伏したと記されています。また貞治元年(1362)、箱根に戦い敗れたとも言われています。韮山町奈古屋の国清寺は国清が開基と言われ、その墓が伝わっています。

現在

狩野川とその支流の桂川に挟まれて、西南から延びる尾根が、くびれ、その先に突出した城山と呼ばれる標高248m、比高約100mの山頂一帯が城跡です。大見の谷と狩野谷そして修善寺の谷の分岐点である要衝に位置し、田方方面の展望も良好です。
西南のくびれ部は狭間と呼ばれ、これにより、尾根は独立丘状を形成していますが、尾根道伝いにかなり急ではあるものの登ることはできます。北部東部は傾斜が急激でかなり切り立ち、南裾は城山神社の東に段丘状の平坦面があり、その1段下には緩やかな段丘が広がっています。字城内と呼ばれるこの南側からの登山道が大手と考えられます。
山頂一帯はかつて公園が造築され、ロープウェイの発着所、テレビ送信塔なども建設されたため、著しく改変されています。一番の高所が主郭と考えられ、広さは約20m四方で廃井戸や石碑が立っています。その1段下の周囲には帯郭状の遺構があり、石垣と見られる石積も残されています。この主郭から一段下ると、北と南の尾根線上に平坦部があります。北部は現在、小さな社が祀られていて狭い郭状を呈しています。南部はロープウェイの発着所建設によって破壊されていますが、東西40m南北20m程の広い郭状を呈しています。それからさらに尾根沿いに南に下ると小さな平坦部があります。
南側の城山神社からの登山道の中復には狭い腰郭状の平坦部があり、井戸址が残存しているため、井戸郭と考えられます。
城下の城山神社東側の段丘状の平坦部や、その下に広がる段丘面は館跡等を推定されます。また、字狭間を越えて南側の尾根嵐山も字城山と呼ばれ、この地域にも広がっていた可能性もあります。
城遺構については沼館愛三氏の調査、報文で詳しく紹介されていますが、現在ではそれらの遺構はかなり改変されています。『増訂豆州志稿』では空堀があったとしていますが不明です。また同書には北裾の字矢ノ下から鏃が発見されたと記されています。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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