柏久保城

かしわくぼじょう
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早雲が奪った狩野氏の出城

  • 名称かしわくぼじょう
  • 俗称・別名愛宕山城、柏窪城、城山
  • 所在地伊豆市柏久保
  • 様式山城
  • 遺構土塁、堀切
行きやすさ 行きやすさ アクセス詳細

早雲が伊豆国平定のため、大見三人衆等に普請させたと考えられる山城

狩野川支流、古川と大見川が合流する地点の東の愛宕山に位置する柏久保城。西側には修善寺城、眼下には修善寺の町が広がり、正面には富士山が一望できます。

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柏久保城の創築時期は判然としませんが、鎌倉幕府草創以来の御家人である狩野氏の出城として築かれたと伝えられています。明応2年(1493)、堀越御所の足利茶々丸を滅ぼした伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、そのまま狩野氏の居城である狩野城へ迫り、その前後に柏久保城を奪ったと考えられています。明応6年(1497)、柏久保城を奪還すべく狩野勢が攻め寄せたものの、大見三人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)の働きによって守られたとされています。この頃に普請が命じられていることから、狩野氏や一族の伊東氏が抵抗を見せていたものと考えられます。早雲は、伊豆国を平定した後も柏久保城を廃城せず、韮山城の出城として利用したようです。
『北条五代記』によると「三十日の中、伊豆一国治まりぬ」と記されていますが、柏久保城をめぐる争いを見る限り、狩野氏や伊東氏が早雲に従うまでには、かなりの時間を要したと推察されます。なぜなら、本城に残る堀切や土塁は、西側と南側にしか見られませんが、これは明らかに狩野氏の勢力圏からの攻撃を想定した造りであり、狩野氏との争いが仮に1ヶ月という短期間で終決したとしたら、城に土塁や堀切などの防備を施す必要などなかったはずだからです。

成り立ち

『静岡県史料』中伊豆町八幡佐藤家文書に明応6年(1497)大見三人衆(佐藤々左エ門、梅原六郎左エ門、佐藤七郎左エ門)宛の北条氏の感状にこの要害の普譜と戦闘についての記載が見られます。また、それ以前の明応4年小田原攻略以前の北条早雲の伊東伊賀入道宛の文書(伊東文書)によれば、早雲と狩野道一との間に戦闘があったことが明らかになっています。『北条五代記』によれば、延徳3年(1491)の早雲の伊豆国侵入に伴い、大見郷の佐藤四郎兵衛が降人となったこと、あるいは同人を含む、梅原木右エ門、上村玄蕃の大見三人衆がこれに従ったとされていますが、狩野・伊東両氏は見られません。したがって、この間に伊東、狩野氏と早雲とそれに従う大見三人衆の間に戦闘があったこと、そしてこの後、伊東氏、狩野氏の順にこれに従ったと推定されます。早雲の伊豆国侵攻は五代記の伝えるように楽なものではなかったと思われます。これらのことから本城は、早雲が伊豆国平定のため、大見三人衆等に普請させたと考えるのが妥当といえるでしょう。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

大見川と狩野川が合流する大見谷、狩野谷の分岐点の要衝に位置し、西に狩野川を隔てて修善寺城跡と相対しています。東北方から延びる尾根が、狩野川に向って突出した、一見独立した山上、愛宕山の山頂一帯が城跡です。標高は180m、比高100mで、北は大野川の谷に急傾斜で落ち込み、南は急傾斜ではありますが、山裾は河岸段丘の平坦地となっています。なお、山頂にある石碑文には、狩野氏の築城によるものと記されています。
山頂に当る部分には愛宕神社が祭られ、土塁状の遺構が東南曲輪を巡っています。東部はわずかに低く段を持っています。この部分から東へ、比高10m程で細長い曲輪となり、その先は堀切にて尾根を切断しています。西部は小さな帯曲輪状を呈し、それから先は尾根に沿って急傾斜で下っています。この先は、さらに西に向って張り出し、見張り台等の施設の可能性があります。ちなみに、北側の深い谷は新九郎谷と呼ばれています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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