大見城

おおみじょう
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北条氏が整備した中世山城

  • 名称おおみじょう
  • 俗称・別名城山
  • 所在地伊豆市柳瀬
  • 様式山城
  • 遺構空堀、土塁
  • 築城年15世紀後半か

地元土豪の大見成家が構築したと考えられる城郭

狩野川の支流である大見川と冷川の合流点の南側にある小山の頂を中心に築かれた大見城。東伊豆の伊東と修善寺を結ぶ街道を押さえる目的を持っていました。

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12世紀頃(平安時代末)、地元土豪の大見氏が現在の実成寺付近に館を設けたと考えられ、その背後にある小山に城を築いた時期は不明ですが、『大見三人衆由来書』によると、明応6年(1497)、北条早雲勢として大見三人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)が大見城から出撃し、柏久保城を攻撃中の狩野勢を背後から攻めかかって退散させています。また、同年には大見城に籠城したとされています。従って、15世紀後半には、山城としての体裁がある程度は整っていたと考えられます。
天文5年(1536)、今川義元は甲斐の武田家との同盟を強化。これにより駿相同盟は破綻し、北条氏綱が駿河へ侵攻、河東(富士川以東の地域)を占拠しました。同14年(1545)、義元は河東へと攻め入り、奪還に成功しました。この時、武田晴信が仲介して甲駿相三国同盟が成立し、三国国境周辺域の争いは終息することになりますが、こうした天文年間における河東をめぐる争いのなかで大見城も改修を受けたと推察されます。
元亀2年(1571)、再び河東地区での争いが激化。今川氏の滅亡によって駿河を領有した武田軍が北条領へと侵攻を開始し、それ以降、武田氏滅亡までの10年間にわたって、この地域は国境となって緊張関係が持続しました。そのため大見城もそれなりの役割を担っていたことは思われ、この時期に改修があったとことも考えられます。
この地域における最大にして最後の緊張関係は、天正18年(1590)の豊臣軍の侵攻です。天正年間の後半になると、後北条氏は国境周辺域の大整備改修を実施します。現状の遺構を見る限り、後北条氏による改修があったとは考えられませんが、城としては機能していたのではと思われます。

成り立ち

本城は、『増訂豆州志稿』において柳瀬塁址と呼称され、『東鑑』『保元物語』『流布本曽我物語』等に記載されている大見氏の城跡です。同町八幡にあったと言われる旧館跡、城跡を後に移したものとしています。中でも大見家政(平三)又は大見成家(小藤太)が構築したものと推定されています。

現在

大見川とその支流である冷川の合流点に位置し、城山と呼ばれる標高約220mの比高約70m山頂が城跡です。東方はややくびれ、空堀によって背後の山と区画されています。最高部の主曲輪と考えられる部分は約20m×15mで、かつて墓地として利用されていました。主曲輪の南には帯曲輪状の遺構が残っています。さらに西に下ると諏訪神社があり、曲輪状を呈しています。
西裾は城ガ平と呼ばれ、寺が建っていますが、この地域が館跡と推定されています。
付近には鍛冶谷戸、矢取洞、敵ケ平、馬場沢などの地名が残っています。北部の馬場沢には、大見知家の墓と伝えられる宝篋印塔があります。
後北条氏に関係する大見三人衆の関係するものとの可能性もあります。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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