小山城

こやまじょう
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信玄による遠江攻略の前線基地

  • 名称こやまじょう
  • 所在地榛原郡吉田町片岡
  • 様式平山城
  • 遺構曲輪、三重堀切、馬出(復元)
  • 築城年元亀2年(1571)

武田氏の遠江経略の要所として築かれた城

牧ノ原台地の南東端から大井川下流の沖積平野に張り出した舌状丘陵の末端を利用して築かれた小山城。大井川の渡河点と海岸沿いの街道が交差する交通の要衝に位置し、信玄による遠江攻略の橋頭堡の役割を期待され築かれたと思われます。

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今川氏が没落して以降、武田氏と徳川氏は大井川を境として、それぞれ駿河と遠江を領有。やがて信玄は遠江へ侵攻し、元亀2年(1571)、大井川を越えた武田軍は徳川方の城であった小山城を攻め落とし、大熊備前守長秀を城主に据えたとされています。
小山城の創築年代は明らかではありませんが、この段階では砦程度のものであったとみられ、武田方の城となってから本格的に築城されたと考えられます。
天正2年(1574)、信玄の意思を継いだ勝頼は徳川方の守る東遠江の堅城、高天神城の攻略に成功。翌年、長篠合戦で武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、遠江をめぐる武田と徳川の攻防は一層激化しました。こうしたなか、小山城は一貫して武田方の遠江経略の要所であり続けました。
一方、家康は高天神城を攻略すべく、その周囲に付城を築いて包囲し、天正9年(1581)、織田軍の助力を得て本格的な城攻めを行い、孤立無援となった高天神城をついに落城させました。翌年、遠江から武田方の勢力が駆逐されるなか、小山城は将兵が城を退去したことによって開城され、その後廃城となったと見られています。
小山城は、地続きとなる西方の防備に力を入れており、また、曲輪が広くとられていることから、物資や兵員の拠点となっていたと思われます。こうした構造から、本城は武田氏が駿河から遠江へ侵攻するために築いた拠点城郭であり、兵站基地でもあったことを物語っています。
現在、小山城は、平野に突き出した丘陵の先端にあり、模擬天守が目立つことから、地域のランドマーク的存在となっています。登城口のある能満寺方面には駐車場があり、登城道も整備され、10分足らずで公園となっている城域に到着できます。

成り立ち

鎌倉時代、文治の頃、関東の武将小山七郎朝光がここに砦を築いたのが小山城のはじめといわれ、また、今川義元が遠州を支配していた当時は、その家臣である井伊肥後守直親がこの地を治めていたともいわれています。さらに徳川家康が永禄12年(1569)12月、家臣松平左近真乗にこの地を治めさせ、元亀元年(1570)に徳川の手にわたったものの、翌年2月、武田信玄によって奪還され、馬場美濃守氏勝に命じ、砦を拡張修理して城郭を構え、小山城とし、大熊備前守長秀を城主としました。
当城は、武田信玄の東遠の拠点として利用したと考えられています。金谷の諏訪原城は東海道の押えとし、当城は横須賀街道の押え及び海上の動向観察を任務としていたと思われます。
本城周辺には、東南方向に通称吉田たんぼと云われている条里遺構や、鎌倉中期の寺院で本城より250年も古いと云われる臨済宗の古刹「能満寺」があり、又南側には、神明宮(式内社)があり、西方300m付近には、大熊備前守屋敷跡があります。
出典:「静岡県の中世城館跡」

現在

吉田町片岡にある能満寺の裏山に当り、俗に能満寺山といわれ、牧ノ原から初倉、坂部の間を東南に走る丘陵の先端に当ります。現況は、山林、茶畑、社寺境内となっており、北及び東は断崖絶壁となっていて、南側も急斜面であり、塹濠、空濠、土塁、本丸、二ノ丸等あり、本丸、二ノ丸附近は開かれて茶畑となり、幾つかの堀も埋められた所もありますが、通称三日月堀を初め、幾多の堀が見られ、井戸も残存しています。また、東側の米倉のあったとされる所からは焼米が出土しています。
出典:「静岡県の中世城館跡」

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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