法永長者屋敷

ほうえいちょうじゃやしき
  • 名称ほうえいちょうじゃやしき
  • 俗称・別名小川城
  • 所在地焼津市西小川5丁目
  • 様式その他

今川範忠・義忠に仕えた長谷川次郎左衛門尉正宣のもとされる屋敷

『駿河記』等によれば法永長者屋敷は今川範忠、義忠に歴任した長谷川次郎左衛門尉正宣(法永長者)の屋敷と記されているが、その創築者及び創築年代は明瞭さを欠いている。又、正宣の孫次郎右衛門正長の時、西北の一色(田中城付近・藤枝市)に居を移したとあり、室町末期頃には衰微したものと思われる。
遺構の概要については明治9年の地籍図に細かな地割りとして残っている。小川城の立地については現状では平地となっており自然地形の変化をみることは困難であるが、この地籍図によって城跡の周辺に残る地名(小字名)を手懸りとして旧地形を想定することができる。
遺跡は大きく大井川水系(黒石川)と瀬戸川水系(泓ノ川)との合流地に発達した自然堤防上に占地している。泓ノ川に沿って東西方向に小川、竪小路集落をのせる微高地が走っている。これらは(仮称)西小路微高地、五丁微高地、新開微高地、海蔵寺微高地に細分される。小川城の乗る城ノ内微高地は北側に一丁田、道場田、トロ田、小深田、深田、荒田などの低湿地帯であることを示す水田区割りを残している。南側には上ドブ・下ドブの旧泓ノ川の河川を残す区割りが残されている。また西側部分は西小路微高地との間がやや低く、旧河川によって分離されていたとみられる。東側は五丁、新開までの高まりがのび、竪小路微高地を南北方向に区切るように新開、堤内の低地がみられる。従って城の乗る自然堤防は東西450m、南北250m程の微高地で、その西北端部の最も高い位置に占地している。このように現状地形では全く変化がみられない場所であるが、微地形的にはかなり巧みに自然地形を利用して平城形式の城郭遺構を構築していたものと考えられる。
現状で知られる規模は東西140m、南北90m程の郭で周囲に土塁をもつ。(この土塁については昭和30年代まではその痕跡が残っていたが、現在は宅地化して全く姿をとどめていない。)堀は水堀で幅20m程と考えられ、小字名「堀」の地割りは郭をかこむようにめぐらされている。この堀の外辺部にも郭状の区画がみられる。まず北東には外側に土塁状の遺構を伴うと考えられる小型の区画が、東側には竪小路につながる区画が、さらに南西隅にも区画がみられる。
城ノ内地区の東側部分より竪小路と呼ばれる道が東へ直線的にのびている。この道路を中心として集落が発達しているが、この集落の中には土塁及び、周囲に土塁をめぐらした屋敷跡と思われる区割がいくつかみられる。西小路地区2カ所、五丁地区2カ所、宮下地区1カ所、新開地区3カ所がみられる。これらの屋敷についてはもちろん年代的なものは明らかにすることはできない。ただ、一つの微高地において小川城を中心とした一種の城下集落的な可能性も想定され、今後、この地域の考古学的調査を含めた裏付けや研究が望まれる。
なお昭和54年度小川地区遺跡分布調査により、小川城の堀の中から多数の木製品が出土しており、木簡「薬師如来」や漆器、曲物類が検出された。他に洪武通宝もみられる。

上記は「静岡県の中世城館跡」(1981年・静岡県教育委員会発行)をベースに、
2010年8月現在確認がとれた情報について、加筆・修正を施し作成しています。

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